二話 襲撃 と 出会
翌朝目覚めても、悪夢は覚めなかった。
僕はもう一度建物内をくまなく探し回って、人間が存在しない事を確かめた。
ため息をついて外に出てると、太陽の強い光が闇を駆逐していた。
辺りは平原だった。
乾いた地面、雑草すらほとんど生えていない荒れた土地。
そこに献血ルームの建物だけがぽつんと建っていた。
三方は切り立った山々に囲まれ、残った一方には、大分遠くに森が見える。
僕は再びため息をついて、その森に向かって歩き出した。
献血ルームに人はいないし、見渡す限り人工物らしいものも見えない。山をよじ登るような装備も持ってないし、第一食料だって何にも無い。
もう、あの森に行くしかないじゃないか。
僕は泣きそうになった。
八月の一番暑い時期だというのに気温も湿度も高くなかった。春先のような過ごしやすい陽気だったのが唯一の救いだった。
張り付くような暑さやうっとうしい汗、激しい喉の渇きに心を折られずにすむ。
もう僕の心はかなり弱っているんだ。これ以上の事には耐えられそうにない。
森に近づいてみると、木々はどれも背が高く幹も太かった。そして葉っぱは丸かった。
僕はこんな形の葉っぱをつけるような木は、見たことが無かった。
木についての知識なんて、僕には全然無いのだけれど。
もしかしたら南米辺りにならこんな木もあるのだろうか。
だとしたらここは南米か?
多分違うと思う。
南米はもっと蒸し暑いイメージだ。
それに、あの山の外観なんかはスイスとかのヨーロッパにありそうな感じだ。
森に入ると太陽の光はその木々に遮られ、辺りは薄暗くなった。
縦横無尽に張り巡らされた木の根に躓かないよう、僕は慎重に歩いた。
目指す方向も解らず、何を目指しているのかも解らないまま、僕はずいぶん長いこと歩いた。
さすがに汗が出てきた。それに息も切れ切れだった。
もう休みたいと思った時、水の流れる音が聞こえた。
僕は音のする方向へ行ってみた。
見えてきた。やっぱり川の流れる音だったんだ。とりあえずあそこで一休みしよう。もしかしたら人がいるしれない。
しかしそこに人間はいなかった。
こちらにお尻を向けた、一匹の体の大きな犬が川面に口をつけて水を飲んでいるだけだった。
がっかりはしたけれど、でも僕は動物好きだったので、その犬の姿に少しだけ心が癒された。
どちらかといえば犬より猫派なのだが。
「おーい、おいでおいでー。ワンワンワンワン」
ジャレたくてかけた僕の声に反応して、犬は川から顔を上げこっちを振り向いた。
お、狼……? いやニホンオオカミは絶滅してるはずだし、いやそれ以前に。
そいつの口からは巨大な牙が突き出していた。
犬歯が異常に発達している。大きさはそれぞれ二、三十センチはあるだろうか。
顔の半分以上の面積を、牙は占拠している。
あんなでかい牙持ってるイヌ科なんていないだろ。
じゃあなんなんだあいつは。
そいつは歯をむき出しにしてこっちを睨んでいる。
上下から伸びる四本の牙のせいで、構造上口を閉じられないようだ。
その顔は笑っているようでもあり。
……怒っているようでもあった。
僕は一歩後ずさった。
するとそいつは一歩前に出た。
僕が後退する度にそいつは前進してきた。
襲われる、と僕は思った。
そして、逃げるべきだ、と悟った。
僕が走って逃げようと決意した時、一瞬早くそいつが突進してきた。
野生動物の俊敏さに人間が敵うわけがない。
あっという間に距離を詰められ、僕はそいつに押し倒された。
地面に叩きつけられた僕が次に見たものは、そいつの口の中だった。異常な大きさの牙と、真っ当な大きさの歯。そして毛羽立ったように小さな突起が生えた、濃いピンク色の舌だった。
「うわぁ!」
叫んだ後で思った。こいつは僕を喰う気だ。
あの四本の牙で僕の頭を貫き、命を絶ってから死体を巣に持ち帰って、ゆっくりと味わうつもりなんだ。
僕はもちろん死にたくなかったから必死で抵抗した。
けれど、いくら押さえつけられた手足をバタつかせたり体を揺すっても、そいつの動きを止めることは出来なかった。
そいつの口は最大限まで開ききり、今度は閉じる方向に転じた。
走馬灯は無かった。
次の瞬間、そいつは急に横に倒れこんだ。
見ると、そいつは耳から火を噴いていた。
そいつは、キャインキャインと犬のような鳴き声を上げながら川に飛び込み、そのまま対岸の奥へと消えていった。
「大丈夫ですか?」
状況が飲み込めず呆然とする僕に、声がかけられた。
まだ一日も経っていないはずなのに、他人の声を聞いた事を懐かしく感じた。
顔を向けると、声の主はでこぼこの地面をひょこひょこと飛びながら、こっちに駆け寄ってきていた。
日本人?
黒髪に黒い瞳、顔立ちや体型。
どう見ても、僕と同い年くらいの日本人の女の子だった。
少なくともアジア系なのは間違いない。
白生地のどころどころに、どこぞの民族衣装のような幾何学模様が施されたワンピースを着て、その裾からちらりと見えた足には、桃色のもんぺのようなズボンを履いている。
こんなファッションは見たことが無い。
顔とは対照的に、服装は異質だった。
「大丈夫でしたか。怪我してません?」
そうだ。さっきも聞いた。やっぱり日本語を話している。この女の子は日本人なんだ。
「あ……え、と。あの日本人?」
「ニホンジン? 何の事ですか」
「ここは、日本ですか。東京? 関東?」
女の子は、僕の質問の意味を測りかねている様子だった。
「ここに名前はないです。ただの森です。近くにあるのは、ワコウ村だけです」
ワコウ? 聞いた事が無い地名だ。
ここはやっぱり日本じゃないのか?
「……大丈夫ですか?」
女の子は心配そうに僕を見つめていた。
大きな二重の目に小さめの鼻。口の右下に小さなほくろがある。
若干丸みを帯びた健康的な輪郭とは裏腹に、肌は病的なほどに白い。
「あ、あぁ。大丈夫です。そうだ! 今あなたが助けてくれたんですよね。ありがとうございます」
「いえ、間に合って良かったです」
「危機一髪でした。本当に助かりました。でも、一体どうやって……。つっ」
体を起こそうとした僕は、右腕に激しい痛みを感じた。
押し倒された時に怪我をしたのだろうか、右ひじ辺りから大量の血が流れていた。
僕の大切な血が。
「あぁ大変。痛そうですね、すぐ治します」
そう言うと、女の子は右手人差し指を突き出した。
その指先には小さな切れ込みが入っていた。
そこから少しずつ、ゆっくりとあふれ出すように血がでてきた。
僕は息を飲んだ。
女の子の、その指先に滲む血が、とても魅力的に見えたからだ。
その血は、一般的な(ここが日本であればだが)赤色だったが、僕の目には……なんと表現するべきだろう。オーラのようなものを纏って、優しく輝いているように見えた。
今までの人生の中で、僕は自分のもの以外の血に魅力を感じた事なんて一度も無かった。
でも、今目の前にある女の子の血には、僕のものと同じか、もしかしたらそれ以上に、僕を強く惹きつける何かがあった。
女の子が指先を小さく振ると、溢れ出た血は一滴だけこぼれ落ちた。
その血は重力に従い、真下にある僕の右ひじへと着地した。
僕の血と、女の子の血。
僕を魅了する二つの血が交わる。
何故か、僕は今まで感じた事の無いような、大きな幸福を感じた。
僕が恍惚の表情をしていると、次の瞬間、女の子の血を受けた右ひじが本当に光を放ちだした。
僕が驚くとその光はすぐに消えた。
そして、僕の右ひじの怪我は跡形も無く消えさっていた。
「私、怪我が治せるんです」
女の子はニコリと笑った。
「あなたの血は、とても綺麗ですね」
僕は場違いな事を言ってしまった。。