一話 献血 と 異常
僕は血が好きだ。
その赤黒い色を眺めるのも好きだし、鉄臭い匂いを堪能するのも好きだ。
汗と似たような、それでもどこか明確な違いの感じられるあの味も大好きだ。
体中を血が駆け巡っていると思うとドキドキする。
怪我した時に流れる血には、古代に封じられていた神(または悪魔)が復活したかのよう神々しさを感じる。
しかし、もちろん好きなのは自分の血だけだ。
他人の血を見たいとは思わないし、たとえ見たって何とも思わない。ただの赤色の液体だ。
それに、僕は暴力を好まない。
むしろ、できるだけ人助けをしようと心に決めて、日々の生活を送っている。
僕は、僕の血だけが好きなんだ。
僕の趣味は献血だ。
注射針から自分の血が抜かれる様を見るのが好きだったし、抜かれた血は病院で輸血用として使われるのだから、僕にとっては一石二鳥の趣味だった。
僕はまだ十六歳になったばかりだから、一回で二百ミリリットルの献血しかできない。
来年になれば四百ミリリットルの輸血ができるようになる。それが今から待ち遠しい。
そういえば十五歳以前の僕もそうだった。
ようやく献血ができるようになる年齢を迎えるのが嬉しくて嬉しくて、十六際の誕生日に、僕は近くの献血ルームに走ったんだった。
でも法律では、年間採決量が千二百ミリリットルまで、年間献血回数が六回までと決められている。
それを知ったとき僕は酷くがっかりした。
毎日毎週の楽しみとは言わないまでも、せめて月に一回くらいは献血がしたかった。
僕は献血をして、その後貧血を起こしたことはない。
それどころか、血液量が減った事で逆に六臓六腑内臓機能が活性化している気さえする。
僕は献血を始めてから大きな病気どころか、風邪すら引いていない。健康体になったのだ。
八月のある日、僕はどうしても献血をしたくなった。
どうしても自分の血が抜かれる映像が見たくなったのだ。
でも、前回献血に行ったのは二学期終業式の翌日。
まだ二週間程度しか経っていない。
献血の間隔は、最低でも四週間は開けなければいけない決まりだ。
でも僕は我慢が出来なかった。
体中の血管を走る血達が、自分達を外に出してくれ、そして見てくれ。と叫んでいた。
僕は、兄の名を騙ることにした。
こっそりと免許証を拝借し、普段は行かないちょっと遠目にある献血ルームへと行った。
兄は僕と違って献血なんかには興味はなく、一度も行った事はない。当然献血カードも持っていなかった。
二歳上の兄は体格こそ違えど、僕と顔が良く似ていたから、免許証の顔写真程度では違いを見破ることはできないだろう。
たしか血液型も同じA型だったと思う。
僕は受付に、初めてなんですけどといった。
問診表に兄の名前を記入し、年齢も間違えないように注意を払った。
そして折角なのだからと、献血量を四百ミリリットルにした。
その後の検査や問診で、兄の名を騙った事や二週間前に献血した事がバレる事はなかった。僕は安心した。
意気揚々と待っているとすぐに看護婦さんがやって来た。
今回は四百ミリリットルの採取ですね。献血は初めてですか。などと看護婦さんが尋ねてきたので、僕ははい、はいと応え、よろしくお願いしますと上機嫌に言った。
腕に止血帯が巻かれ血流が阻害される。
浮かんだ血管に細い注射針が静かに入っていく。
痛みらしい痛みは無かった。
そしてついに念願の、待望の、僕の血が注射機についた試験管の中に注がれた。
あぁ、なんて美しい色合いなのだろう……。
粘り気の無いサラサラで健康的な血だ。
未成年だから飲んだ事は無いけれど、きっとどんな高額で希少なワインよりも、この血は美味しいに違いない。
こんなすばらしい血が、今まで僕の中に入っていて、しかもまだ大量に僕の中に残されているだなんて……なんて、素敵な事だろう。
そんな事を考えながらうっとりとしていると、注射針は僕の肌から抜き去られてしまった。
もう採血は終わってしまったのだ。
注射器の胴体は僕の血で満たされていた。
今までの献血で見た血の、倍の量がその中に入っている。それを見て僕の満足感も倍化した。
看護婦さんが運び去ってしまうまで、僕はずっとその血が入った筒を眺め続けた。
その後僕はすぐ隣の部屋へ移され、そこでしばらく安静にするように言われた。
普段であれば興奮していて休むどころではないのが、今日は少しだけ疲れていた。
やっぱり四百ミリリットルという量は無茶だったかな。
でもいいんだ。それ以上に得た感動は大きかったんだから。
僕は目を閉じた。多分幸せそうな笑みを浮かべていると思う。
いつの間にか、僕は意識を失っていた。
ずいぶん長いこと眠ってしまったようだ。
窓の外は真っ暗だった。
部屋には僕以外誰もいない。
起き上がって隣の部屋を覗いてみる。ここにも誰もいない。
受付まで戻ってみたが、従業員も客も、誰一人いなかった。
電灯の白い無機質な光が、なんとなく不気味に見えた。
「すいませーん」
僕は大きな声で呼びかけてみた。
しかし返事はなかった。
どうしたものかと思案した、時計を見ると夜の八時を過ぎている。
もう帰らなければ。
とりあえず一通り献血の流れは終わっているはずだ。
もし何か不備があれば問診表に書いた自宅の電話に連絡が来るだろう。
兄に成り代わったのがバレるかもしれないが、兄にお願いして口裏を合わせておけば大丈夫だろう。
失礼しました。一応そう言っておいて、僕は献血ルームを出た。
外は暗闇だった。
献血ルームから発せられる灯りの届く範囲以外は完全なる黒だ。何も見えない。
おかしい。
確か向かいにはコンビニがあったはずだ。
それにいくら田舎とはいえ、外灯が一切無いなんてことありえるのだろうか。
不思議に思いながら、僕は来たときの方向へ歩き出した。
やっぱりおかしい。
コンビニどころか建物が無い。
たしか、来る時は何軒かの民家や飲食店の角を曲がってきたはずだ。それが無い。
そういえば、献血ルームは五階だったか六階のワンフロアにあったんじゃなかったっけ。
扉の前には階段とエレベーターがあったような。
そう! たしかにエレベーターに乗った記憶がある。
さっき出てきた時、扉を開けたらいきなり外だった。階段もエレベーターも無かった。
しばらく歩いても何も見つからなかった。
というより闇で何も見えないのだ。
自分の手足さえ見えない。
僕は恐ろしくなってきた。
僕は地獄にきてしまったんじゃないか。
そんな想像に囚われた。
僕は走って今歩いた道を引き返した。
見えないから方向感覚も狂っていて、本当に戻れているのかは解らなかった。
でもじっとしていると、闇が形を取って襲い掛かってくるような気がして、止まる事は出来なかった。
どれだけ走ったか、長いのか短いのか。
時間の感覚も狂っている。
僕の中の不安と恐怖がピークに達しようとした時、献血ルームの灯りが見えた。
息を切らせてそこに駆け込んだ。
出てきたときと同じく、人の気配は無かった。
「すいませーーん」
僕はさっきとは比較にならないほどの大声を上げた。
反応は無かった。
僕は建物中を探し回った。
受付はもちろん、各部屋を回った。従業員の控え室や、関係者以外立ち入り禁止の事務室、トイレにさえ、人の姿は無かった。
非常口を開けると、非常階段が献血ルームの高さの分だけあった。まるで切り取られたように。
下は地面に着いていたが、上はどこにも繋がっていなかった。
僕は頭を抱えた。
今自分が置かれた状況が理解できない。
僕はただ、献血をしただけなんだ。
これは、夢だ。
現実逃避だろうが、そう思い込む以外に僕に残された道は無かった。
もう一度寝て起きれば、きっと元の日常が戻ってくる。
僕はなかばヤケになって、さっきまで寝ていたベッドに再び横になった。
血を抜いたせいか、走って疲れたせいか、意外にもすぐに僕の意識は眠りに落ちた。