act 4
てつや……?
今、自分は、信じられない名前を聞いた気がした。
ほんのすぐ前まで、未練たらしくも考えていた、そいつの名前。
でも、それは、偽りでも何でもなく、乃亜の目の前に、現れていた。
「てっちゃ……」
いいかけて、すぐに口を閉じた。
「何しにきたの? 話なら、この前、とっくに済んだと思うけど」
済んだというか、一方的に、自分が終わらせたんだけれど。
「まだ、話は終わっちゃいねえ」
鉄哉は、まっすぐに乃亜を見つめると、その足を彼女の元へと進めた。
「ちょっと、待ちな」
その彼の足、それを、一声で、止めた。ある意味、鉄哉がもっとも弱い相手。
綾子は、ゆっくりと乃亜の元から離れ、鉄哉の前にたった。
「何えらそうにしてんだい、元々はアンタが根源だろう」
本当は、そうじゃないのは分かっている。鉄哉一人が悪いんじゃないことも、自分なんか一歩引いて、ちゃんと二人で話をしなければいけない事も。ただ母親として、乃亜がこんな風になっているのは事実であって、鉄哉に会ったら、一言、言いたいのも事実だった。
パシン――――っ。
と、思ってたけれど、気が付いてみると、気が早い綾子は、手を出していた。
「あ……」
自分でもまずいと思ったらしい。それが思い切り顔にでていた。
しかし既に自身の手は、勝手に出ていた後であって。
謝るのも何なので、そのままにした。と言うか、すっきりしたらしい。
「じゃ、私は帰るけど、あんたたち、ちゃんとしっかり話しなさいよ。赤ちゃんはおもちゃじゃないんだから」
言っている事は正論なので、乃亜といい、鉄哉といい、その場に立ち尽くすしかなかった。
まるで、嵐が一瞬で去っていったような感じにおそわれる。サッサと自分のバックを持って、その背中を見せたのだから。
残されたのは、何とも言いがたい雰囲気だけ。
鉄哉は、まっすぐに自分を見つめてくる。
「話がある」
「もうないって―――」
言いかけた自分の体が、足元から、ぐらりと崩れていく感覚に襲われた。
「乃亜!!」
途切れる意識の最後で、鉄哉の声と、自分の体が浮いたような感覚に襲われた。
それはとても暖かくて、ずっと、恋しかった体の温度。
「大丈夫か!?」
本当は、嫌でたまらないはずなのに、抱きしめられているその腕に、恋しかったと泣く自分が居た。
振り切ろうと思うのに、離したくない。そう望む自分がいる。
「てっちゃん……」
名前を呼んだら、いっきに想いが体じゅうに溢れた。たまらなくて、つらかったって、助けて欲しかったって思いが、涙になって溢れた。
乃亜のほっぺたに、しとしとと涙が溢れた。
「乃亜……」
鉄哉の胸に、想いが溢れた。
なぜ自分は、目の前の女をたった一度でも捨てる事ができたんだろう。こんなにも恋しくてたまらないのに。
どんな理由があったって、一度たりとも、離したりするべきじゃなかった。鉄哉は、心からそう思っていた。
そう思えば思うほど、彼女を抱きしめるその手に、力が込められた。もう離したくない。彼はそう心からそう思っていた。
…………でも。
「ごめん、……てっちゃん」
乃亜から出てきた言葉は、鉄哉の望んでいる答えとは、違うものだった。
鉄哉から、言葉が消えた。
その答えを、鉄哉は受け入れられない……。
「無理だよ」
乃亜の言葉に、鉄哉は静かに目を閉じた。
恋しくて、恋しくて、愛おしい……。
そう、お互いが思っているはずなのに、細く短かな赤い糸は、二人の目の前で、プツリときれてしまった。