9.犯人と依頼人、そして容疑者
9.犯人と依頼人、そして容疑者
牛田の姿に気が付いた康子はにっこり笑って手を振った。牛田は康子が座っている席にやって来ると康子の向かい側の席についた。
「待った?」
「はい、少しだけ」
「何か頼んだ?」
「いいえ、まだです」
「そうか。じゃあ、好きなものを頼んでいいよ。今日は俺がご馳走するから」
「本当ですか?じゃあ、シーフードドリアがいいです。それから、パフェも頼んでいいですか?」
「なんだ、そんなもんでいいのか?ステーキでも頼めばいいのに」
「一度食べてみたかったんですよ。ドリアなんてなんておしゃれなもの、家じゃ食べられないですから」
はにかんだ表情の康子を見ていると、自分の歳も忘れて若いころの感覚が甦って来た。それはまるで自分も康子と同じくらいの歳なのだと感じるほどに。
矢沢は康子を伴って駅近くの喫茶店に入った。
「犯人とは直接話したのか?」
「ええ」
「どんな感じだった?」
「変な声だったからピンと来なくて」
「ヴォイスチェンジャーだな。それで着信時の電話番号は?」
「非通知でした」
「まあ、そうだろうな」
「でも、もしかしたら…」
「磐田麻紀?」
「いえ、麻紀ちゃんじゃないと思います」
「なんだって?その根拠は?」
「根拠と言われても…。直観なんですけど、父親じゃないかと思うんです」
「父親って、早苗ちゃんの?要はあんたの元亭主ってことか?」
「はい」
「そうか…。実はその線も考えていたんだが、現状ではつながらないんだ。他に気になることもあるし…」
矢沢は少し考えてから、康子に耳打ちした。康子は黙って頷いた。そして矢沢は席を立った。
「あの…」
康子に呼び止められて矢沢が振り向くと、伝票を手に康子が舌を出している。
「解かったよ」
そう言って矢沢はテーブルの上に千円札を1枚置いた。
「領収書を貰っておいてくれよ」
麻紀は店を早退すると紀子と合流して宇都宮駅に向かった。車の中から駅の方を見て紀子に言った。
「あの人よ。紺色のセーターで大きなトートバッグを抱えている人」
「解かったわ。あの人は私が連れて行くから、あんたは牛田さんを呼んで来て」
車を降りると紀子は駅の方へ歩いて行った。麻紀は携帯電話で短い会話をすると、車を出した。
「瀬能康子さんですか?」
康子は声を掛けてきた女性をまじまじと眺めた。自分を呼び出したのは牛田誠だと思っていただけに不意を突かれたというような表情で紀子を見た。
「あなたが犯人なの?」
「犯人だなんて人聞きの悪いこと言わないで。私はある人に頼まれて迎えに来ただけですから」
「早苗は元気なんですか?」
「だから、私は頼まれただけだから犯人とか早苗とか言われても解からないから」
紀子は面倒臭そうに言うと、タクシーに乗るよう康子に指示した。運転手に行先を告げると携帯電話を手にした。
食事が終わると牛田は康子と繁華街をぶらぶら歩いた。とくに話をするでもなく二人で並んで歩いた。そうしていると、目の前にネオンの明かりが飛び込んできた。牛田は康子の顔を見た。康子は黙って頷いた。二人はそのままホテルの入り口へ向かった。
「牛田さんは今の現場が終わったら居なくなっちゃうんですよね」
ベッドの中で牛田の背中越しに康子は尋ねた。
「なあ、康子ちゃんは俺みたいなおじさんってどう思う?」
「私は牛田さんのこと好きですよ。歳の事とか気にしてないわ」
「そうか。今の現場、あと一月で終わるんだ。そしたら、東京に戻る。一緒に来ないか?狭いアパートだけど二人で暮らす分には何とかなるさ。俺もこの現場で結構金も貯めたから康子ちゃん一人くらい充分食わせてやれるし」
「東京か…。いいなあ…」
その一月後、康子は上野行きの電車の中に居た。上野駅に着くと牛田が迎えに来ていた。牛田との生活は決して裕福なものではなかったけれど、康子は満足していた。牛田は康子に優しくしてくれていたし、仕事が終わるとまっすぐ家に帰って来てくれていた。そんな時、康子は妊娠したことが判った。
「あのね、私、子供が出来ちゃったみたいなの」
「本当か!やったー」
康子の報告に牛田はたいそう喜んでくれた。前の奥さんとの間には子供が出来なかったからと。これを機に正式に籍を入れようとも言ってくれていた矢先だった。数日後、出張で栃木の現場に出張だと言って出かけたきり帰ってこなかった。康子は子供をおろそうかとも思ったけれど、産む決意をした。幸い、牛田が置いて行った預金通帳と印鑑があった。預金は当面の生活には支障がないほど十分な額が残っていた。けれど、康子は近所のスーパーで働くことにした。早苗が産まれても牛田が戻って来ることはなかった。
「もう、これっきりだよ。なんか、東京から探偵とか来てるし、私たちの事を疑ってるみたいだし」
麻紀は助手席に向かってそう言った。
「巻き込んじゃって悪いな。短い間だったけど、我が子と一緒に居られて幸せだったよ。あの日、あの店で君たちの会ったのも神様の思し召しだったのかもしれない」
「冗談じゃないわよ。こっちはいい迷惑なんだから」
隣に座っていた女性の客が携帯電話の写真を見ていた。ふと目が行った。そこに写って居たのは康子だった。子供と一緒に写って居た。彼女たちの会話からその子が早苗と言うのだと知った。本当なら、今頃、親子三人で幸せに暮らしていたはずだった。
「何見てんだよ」
写真を一緒に見ていた連れの女性が睨みつけていた。
「あ、いえ…。知っている人が写っていたもので。その人、瀬能康子さんじゃないですか?」
女性は驚いた顔をしていた。
「康子さんをご存じなんですか?」
「ええ…。その…。女房です」
「えっ!うそ!」