10.犯人 牛田誠
10.犯人 牛田誠
牛田は出張先の栃木の工事現場で事故に巻き込まれた。身寄りのない牛田は会社の方にも家族は居ないと告げていた。康子と一緒になったことも告げていなかった。
怪我は全治一週間程度のものだった。けれど、牛田は記憶を失っていた。医者は一時的なものだと診断したのだけれど、怪我が治って退院する時点では以前の記憶がまったくないままの状態だった。
一緒に出張に来ていた上司が入院中面倒を見ていたのだが、記憶が戻るまで工事現場での仕事は無理だと判断したため、牛田は東京へ帰ることになった。会社から知らせてもらった自宅の住所を頼りに牛田はアパートの部屋の前に立った。
203号室…。表札に居住者の名前は記載されていない。牛田はドアノブを掴んで回してみた。
「ん?」
鍵が掛かっていない。そっとドアを開けた。部屋の中に女の姿があるのが見えた。自分は一人暮らしのはずだ。ここは自分の部屋じゃない。
「どなた?」
部屋の中から声がした。牛田は慌ててドアを閉めるとその場から立ち去った。
人の気配を感じた康子はドアを開けて外を見渡したけれど、辺りには誰も居なかった。
「おかしいわね…」
康子はドアを閉めて再び台所に戻り、夕飯のおかずを作り始めた。今夜のメニューは豚肉とキャベツのみそ炒め。牛田が好きなメニューだった。牛田がいつ帰って来てもいいように、康子は毎日二人分のおかずを用意している。
「今日は帰って来てくれるかしら」
出来上がった料理を皿に移しながら康子はため息を付いた。
どうしていいのか分からなくなった牛田は会社に戻って事務員に声を掛けた。
「あの…」
「あら、牛田さん、どうしたの?家に帰ったんじゃなかったの?」
「それが、家に行ったら他の人が住んでて…」
若い女性の事務員は首を傾げて雇用者票を見直した。先ほど牛田に渡したメモと見比べてみたけれど、間違ってはいなかった。
「会社に入る時に嘘の住所を書いたりしなかった?あっ、覚えてないか…。ちょっと待ってて」
事務員はそういうと、一度奥に引っ込んだ。そして、上司らしい男と一緒に戻って来た。男は牛田の顔を眺めて頭を掻きながら言った。
「記憶が戻るまでウチの宿舎に入ってもらうしかないな」
宿舎は大部屋だった。そして、朝夕の食事が出た。牛田は何日かそこで過ごすうちにタダ飯を食っているのが申し訳なくなり、仕事を与えてくれるように頼み込んでみた。そして、人夫仕事の現場に通わせてもらえるようようになった。元々班長をやっていた牛田はすぐに仕事の勘を取り戻した。仕事に関することはほとんど記憶が戻った。けれど、自分のことについての記憶は一向に思い出せないままだった。そして、会社も仕事には支障が無いと判断し、栃木の現場に牛田を戻すことにした。
牛田の記憶が戻ったのはそれから一月ほど経ってからだった。けれど、その記憶の中に康子の存在は無かった。東京に戻った時、自分の部屋に居た女…。ちらっと見ただけだったのだけれど、牛田の脳裏にははっきりとその姿が焼き付いていた。もしかしたら自分と何か関係がある人なのでは…。そうであればいいという期待感が牛田のなかで日増しに大きくなっていった。
「この現場が終わったらもう一度訪ねてみよう」
ところが、現場が終わる頃には栃木の出張所の世話役に推薦され、栃木で暮らすことになった。もとより一人身なのだから何の問題も無かった。
「きっとあれは幻だったんだ」
牛田はあの女の存在を頭の中から振り払った。
牛田は居酒屋で偶然、隣に居た二人の女性に康子とのことを話して聞かせた。
「それから一度も会ってないの?」
「いや…。はじめの頃は月に一度は彼女に会いに行っていたよ。会うと言うよりはそっと見守ると言った感じだったんだけど」
「なに?それってストーカーじゃない」
康子の知り合いだという女性ではない方の紀子と呼ばれている方の女性がそう言って軽蔑の眼差しを向けた。
「そう思われても仕方ないね。だけど、彼女が妊娠しているのが判ってからは止めたよ。独身でないのだと解かったから」
牛田は苦笑して下を向いた。すると、康子の知り合いの女性が紀子に黙っているように言ってから話し掛けてきた。
「その時はまだ康子さんのことを思い出してはいなかったのね?」
「ああ」
「じゃあ、いつ思い出したの?思い出してすぐ会いに行かなかったの?」
「完全に記憶が戻ったのは1年後だった。康子と暮らしていたことは思い出したものの既に康子は別の男と一緒になって子供まで居た…」
「バカねえ!その子が自分の子供だとは思わなかったの?」
「それはすぐに気が付いたけれど、康子が他の男と一緒になっているのではどうしようもないだろう。だから、俺は諦めた」
「昔のことはしらないけど、康子さんは早苗ちゃんを一人で産んで、一人で育てて来たと言っていたわ。一度も再婚なんてしなかったと思う」
「えっ?だって、洗濯ものには男物の服や下着が…」
「バカじゃない!若い女が一人暮らししていたら防犯上、そうするのって常識じゃない」
紀子が呆れたと言わんばかりに口をはさんだ。牛田は額に手を当て悔やんでいるようだった。
「じゃあ、あの時ちゃんと会っていれば…」
「今更だけどね。それより、どうするの?康子さんは今でもあなたの帰りを待っているかもしれないわよ。それに、早苗ちゃんにも会いたいんじゃないの?」
「いや、既に諦めたことだ。ただ、子供には会いたいな…。あの、頼みがあるんだけど聞いてもらえないか…」
康子と別れた矢沢は朝、紀子が立ち寄った神社に出向いた。紀子は賽銭箱の裏から手紙のようなものを取り出していた。さっと目を通すと辺りを見回してそれをポケットにしまった。おそらく、犯人と何らかのやり取りをしていたに違いない。犯人はこの辺りに潜んでいる可能性が高い。康子が呼び出されたという事は、今朝の手紙が最後のやり取りだったのだろう。
辺りには人気が無い。当然だろう。だから、この神社を連絡場所に使っていたのだ。矢沢が車に戻ろうとした時、散歩をしている風の老人が通りかかった。矢沢は一応、声を掛けてみた。
「こんにちは。ここへは良く来られるのかね?」
「うん?ああ、日に三度は来るかのう」
「不審な女を見無かったかな?」
「女?男ならたまに見かけたが。そこの賽銭箱の辺りで何やらこそこそやってたで言ってやったんだ。その賽銭箱に銭を放る奴なんて居ねえってな」
「男?」
「んだ。男だ」
「じいさん、ありがとよ」
矢沢は老人に礼を言うと車に飛び乗り携帯電話を手に取った。康子からメールが入っていた。




