1.探偵 矢沢光一
1.探偵 矢沢光一
事務所に入って来るなり矢沢光一は女性事務員の今里美紀に愚痴をこぼした。一緒に入って来た黒木鉄平は笑いをこらえるのに必死だというような顔をしている。
「今日は散々な目に遭ったな。女性専用車両って、ありゃなんだ?」
「文字通り、女性専用の車両じゃないですか」
「誰がそんなことを聞いているんだ?俺が言いたいのはなんであんなもんがあるんだってことだ?」
「そっか!所長は普段電車に乗らないから知らないんですね。もう、何年も前からありますけど、痴漢防止のための車両で通勤ラッシュの時間帯だけ運行されているんですよ。でも、それがどうかしたんですか?」
「どうもこうもねえよ…」
本当に最悪の朝だったぜ。
いつも通り、愛車のトヨタで出勤しようと思ったらエンジンが掛からねえ。仕方なく電車で向かうことにしたんだ。何しろ、昨夜の深酒が祟って寝坊しちまったからな。あれしきの酒で寝坊するなんざ、俺も歳を取ったもんだ。だけど、そもそもそれが間違いの元だった。
駅のホームに出ると、ちょうど電車が出るところでな。駅員の制止を振り切って、ドアが閉まる前になんとか飛び乗ったんだ。
「キャー!痴漢よ!」
周りの女どもが大袈裟に騒ぎやがる。
「アホ抜かせ!まだ誰にも触ってねえよ」
「イヤだ!この人やっぱり触る気よ」
冗談じゃねえよ。誰がこんなブスなんか…。辺りを見渡して俺は異様な雰囲気に気が付いた。なんか、女しか乗ってねえんだ。そして、窓に貼ってあるステッカーが目に入った。『女性専用車両』女性専用ってなんだ?だから女しか居ねえのか?どおりで、駅員が乗るのを止めようとしたわけだ。俺はてっきり危ないからだと思ってたが…。
「悪ぃ、悪ぃ。知らなかったんだ。次で降りるから我慢してくれ」
「次の駅まで触る気よ!」
「触らないって!ほら」
俺はそう言って両手を高く上げたんだ。ところが、その時、運悪く横に居た女の胸に触れちまった。触れたんだ。触ったわけじゃねえよ。それなのに…。
「触ったわ!この人、私の胸を触ったわ」
「だから違げぇよ。たまたま触れただけだ」
「あっ!認めたわよ。みんなも聞いたわよね」
くそったれ!なんなんだ?この女は。次の駅までの二分間。俺は生まれて初めてこんなひどい扱いをされたぜ。そして、ようやく次の駅に着いてドアが開いたからすぐに飛び降りたんだ。そしたら、あの女が俺の手を掴んで叫びやがった。
「この人痴漢です!」
ってな。すぐにそばにいた駅員が飛んで来たぜ。女は駅員に俺を引き渡すと、あかんべぇして電車に乗って行っちまった。
「ちょっと来てもらえますか?」
って、冗談じゃねえ!俺は駅員の手を振り切って走ったさ。次の電車なんか待ってらんねえからよ。タクシーで来ようと思ってな。よく考えりゃあ、最初からそうしとけばよかったんだ。
そしたら、改札の前に駅員が4人も待ち伏せしてやがった。結局捕まえられちまって、事情聴取よ。そのうち、近所の交番からオマワリまで来やがって。俺がいくら説明しても信じやしねえ。はなっから俺を痴漢だと決めつけてんだ。仕方がねえから、哲平に来てもらったんだ。そしたら、交番のオマワリは急にへーこらしやがって。それでようやく解放されたんだが、たった一駅だけで、二時間も無駄にしちまった。
矢沢が話し終えると、美紀は笑いながらお茶を淹れて二人の前に置いた。
「黒木さんも災難でしたね」
「いえいえ、先輩が窮地に陥っていると知ったら放っては置けませんから」
「何が窮地だ!」
「いや、でも解かるなあ。先輩の顔を見たら誰だって痴漢だと思いますよ」
「なんだと!」
「黒木さんの言う通りだわ。私だって、最初に面接に来た時には何かされたらどうやって逃げようかとずっと考えていたもの」
「お前までなんだ!そんなこと言うと給料減らすぞ」
「まあ!元刑事なのにそんなこと言ってもいいのかしら?私はいつでも辞めていいんですけどね」
美紀に辞めると言われて、矢沢はようやくおとなしくなった。
「さすがの先輩も美紀さんには敵わないみたいですね」
矢沢光一は元本庁捜査一係の刑事で55歳。上司と喧嘩して辞めた後、この探偵事務所をやっている。今里美紀は事務所を開くときに雇った事務員で25歳。矢沢の娘と同い年なのだ。黒木は矢沢が本庁に居た時の部下で34歳、妻と小学5年生の娘が一人。黒木が結婚するとき、矢沢が仲人を務めた。本庁では“変わり者”とみんなに敬遠されていた矢沢を唯一慕っていたのが黒木だった。
矢沢は美紀が淹れてくれたお茶を一口すすって、気持ちを切り替えた。
「それで、依頼人はどうした?」
「所長がなかなか来ないので、また出直して来ると言って一旦お帰りになられましたよ」
「どんな内容だった?」
「人探しみたいですけど、詳しいことは所長が来てから話すと」
「それで今度はいつ来るんだ」
「今日の夕方にもう一度訪ねるとおっしゃってました」
「そうか。それじゃあ、それまでちょっと調べ物をしてくる」
そう言って矢沢は事務所を出て行った。
「今、何か依頼を受けているんですか?」
矢沢が居なくなって黒木は美紀に尋ねた。
「何も無いですよ」
「だって今、先輩、調べ物って」
「ヒマな時はいつもそう言って出掛けるんですよ。駅前のパチンコ屋にね」
「そうなんだ」
「ええ。でも、けっこう出すんですよ。こんな事務所やっているよりは、そっちの方が稼げるんじゃないかっていうくらい」
「へー!そいつはすごいな」
「ところで、黒木さんはこんなところで油売っていてもいいんですか?」
「いけね!じゃあ、僕はこれで。先輩によろしく」
黒木はそう言って事務所を飛び出した。
夕方、再び依頼人がやって来た。30歳前後の女性だ。見た目は普通の主婦の様だった。少し遅れて矢沢も事務所に戻って来た。戦利品が入った紙袋を両手に抱えている。
「あっ、所長お帰りなさい。依頼人の方、お待ちですよ」
「あ、あの…。所長って」
「はい。私が矢沢探偵事務所の所長で矢沢光一です」
依頼人、瀬能康子は矢沢の顔を見て後ずさりした。そして、小さな声で囁くように言った。
「ごめんなさい!他の探偵事務所を探します」
そう言って出て行こうとする康子の手を掴んで矢沢はにっこり笑った。