名前
「お母さん、大丈夫かな?」
「大丈夫、その内泣き止んで来るよ」
ここはお寺の裏にある墓地だった。僕と広幸さんはその入口にあるお地蔵様の前に立っている。お地蔵様は産まれてこられなかった子供たちを導いてくれる存在らしい。
今日は住職さんへの挨拶と、無の・・・あいつの墓参りだった。
「ここに着いた途端、泣き出すんだもん」
「・・・まだ、千鶴さんにとってはつらいことなんだよ」
広幸さんはそう言って小さく笑う。
僕はその場に座り込んでお地蔵様のことをじっと眺めた。
・・・あいつのこと絶対忘れない、そう強く誓ったつもりだった。
でも、思い出せなくなっている。あいつの声も、姿も、顔も、あの日あったできごとですら、おぼろげになってしまっている。
〝生きること自体に意味がある″
そう、誰かが言っていた。
じゃあ、生きることのできなかったあいつは、本当に意味なんてなくて、無駄な存在だったんだろうか。
「ねぇ、広幸さん」
「なんだい?」
広幸さんは、優しげな眼差しで僕を見つめた。
「この子にはさ・・・この子には、名前、なかったの?」
風が二人の間を流れていく。真冬なのに、それはどこか温かい。
「・・・あるよ」
広幸さんは僕に向けたのと同じ優しげな眼差しをお地蔵様の方に向けていた。
ああ、あいつは、産まれていないけれど、ちゃんと愛されているんだ。
「ユウ、有意義の有、有名の有と書いて〝有″」
そう言って広幸さんは目を細める。僕はお地蔵様を見つめたまま、いつの間にか目を擦っていた。なぜその名前になったのか、訊かなくても分かる気がしたから。
「おいおい、なんで泣くんだ?・・・まったく、お母さんそっくりだな」
広幸さんはそう言って肩を竦めた。
「やっぱり僕、泣き虫で、強くなれないね。強くなりたいのにさ」
広幸さんもその場にしゃがむ。
「・・・泣かないことが強いことなのかな?」
僕は驚いて広幸さんの顔を見つめた。広幸さんは優しく笑いかける。
「泣いたっていいんだよ。みっともなくても、それでいい。負けてしまいそうな日や、めげてしまう日があったっていいんだ。
きっと問題は〝そこから″だから。
そこから、前を向いて生きていける人間が。
生きることに真正面から闘っていける人間が、
少しずつ強くなっていけるんじゃないかな?」
直樹くんも〝これから″だよ。そう言って広幸さんは僕の頭を撫でた。
「そろそろ行こうか」
「・・・はい」
広幸さんは徐にお地蔵様の前から立ち上がると僕の手を引いた。そして特に意識した様子もなく口笛を「ヒュー」と吹く。この音を聞くと、どこか新しい場所に行けそうな気がする。
「・・ねぇ、広幸さん。今度、口笛教えてくれる?」
「んっ?ああ、もちろん」
広幸さんはそう言っていつものように笑う。僕はなんだか嬉しくて強く広幸さんの手を握り、置いて行かれないようにぴったりと横を歩いた。
〝無″
ごめんね。
君のことの多くを僕は忘れてしまったんだ。
でもね。君は〝無″なんかじゃなかったんだよ。
幻でも、叶わなかった夢でもなかった。
だって君の名前は〝ユウ″だから。
存在していた。ちゃんとここにいたっていう意味の
〝有″だから。