流れ星の真実
ここは最初にきた丘の上だった。そばの一本の木には僕のセーターがかけてある。
無の手を握っていた右手の感覚が、突如としてなくなった。見上げると無の手が、姿が透明なガラスのように薄くなっていた。
「どうしたの!」
僕は目の前の信じられない光景に動揺した。
「ちぇっ、タイムオーバーか」
そう言って無は寂しそうに笑う。
そう、初めから無はこんな風に寂しそうに笑うんだ。
「・・・言っただろう?僕は存在自体ありえない、幻だって。・・叶わなかった夢だって・・・」
無はあの時と同じように、この世界の青い青い空を見上げる。とても悲しそうな横顔で。
「・・・君は・・・神様の遣いなんかじゃないよね?」
今までつっかえていた疑問をぶつけた。無は静かに僕のことを見つめる。
「僕は昨日、流れ星なんか見てないんだ。だから願いごとなんてしていないんだよ。僕の願いを叶えるなんて、最初からおかしかったんだ」
僕は言葉を切る。
「君は一体、何者なの?何をしに僕の前に現れたの?」
無は静かに笑いかけると、徐に口を開いた。
「流れ星に願いごとしたのは、僕なんだよ」
そして口笛を少しだけ吹いて風を呼ぶ。木にかかったセーターを風で運んで僕の元へ持ってくる。
「・・・神様がね。流れ星が流れたとき、僕に明日のことを教えてくれたんだ。・・・そして願いごとを一つ、叶えてくれると言ってくれた」
「明日っていうのは、今日のこと?」
「・・・そうだよ」
無は笑っているはずなのに、なぜか僕には泣いているように見えた。無の姿がどんどん薄くなっていく。
「君は一体・・・何を願ったの?」
長い沈黙。それでも無の表情が、ほんの少し明るくなった気がした。
「直樹が、死なないこと」
突如として、この世界自体が歪み始める。意識がどんどん遠のいていく。
「よかったよ。直樹が〝生きたい″と願ってくれて・・・そうでないと、あの死の世界からは救い出すことができなかったから・・・」
なぜだろう、遠のく意識の中で無が消えていくのを見ていると、涙が出てくる。とても大事な何かが、失われている気がする。
「君はその内忘れるんだ。
僕の声も、僕の姿も、僕の顔も、今日あった全てのことをきっと忘れる。
だって僕は〝存在していない″んだから。
〝存在する前に終わってしまった″んだから。
僕は結局、叶わなかった夢で、幻にしか成り得ないんだよ。
・・・でも会えてよかった。
ずっと嘘ついててごめんね。できることなら、直樹と遊びたかったから・・・
とっても楽しかったよ。
ありがとう。
・・・僕には〝生きる″ことがどのくらいつらいかなんて分からないけど、でもね。きっと直樹が僕の頃は〝生きたい″と強く願っていたはずなんだよ」
壊れゆく世界の中で、消えていく無は本当に〝無″に還っていくようで、僕は泣いていた。
忘れたりなんかしない!絶対に忘れたりなんかしない!そう叫ぶのに、それは声にならなくて、無には届かなくて。それがとても、もどかしくてやるせない。
その内に世界はなくなっていって。無は〝無″になって、僕の意識も失われていく。
「バイバイ、お兄ちゃん」
最後に僕の耳に届いた声には、寂しさも、悲しさも含まれてはいなかった。
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目を開けると、真っ白な天井が目の前にあった。規則正しくタイル張りされたそれは、どこか無機質で冷たい。
僕は天井よりさらに白いベッドで仰向けに寝かせられている。
一体ここはどこだろう?
自分がどうしてこんなところにいるのか。今まで何をやっていたのか。すぐには記憶を手繰り寄せることができなかった。
横目に、点滴の袋がつり下がっているのが見える。
そうだ、確か僕は今日死のうと思ったんだ。
そしたら、知らない男の子に会って、風が僕を不思議な世界に連れて行って―――
脳裏に消えていく無の姿が浮かぶ。
体中に痺れるような感覚が走った。僕は慌てて起き上がる。
無は一体、あの後どうなってしまったんだ?
ベッドから出ようとすると、布団の裾が引っ張られた。見ると、お母さんが布団を下敷きにしてベッドの端で突っ伏している。
「お母さん、お母さん!」
僕は必死でお母さんの体を揺すった。
お母さんは徐に起き上がる。
「直樹・・・!」
僕の姿を見るとお母さんは口元を抑え、泣き出してしまった。そして強く強く抱きしめられる。お母さんの嗚咽が耳元で大きく木霊す。
「あなた・・あなたお寺の林の中で倒れていたのよ。・・・一日中ずっと、目を覚まさなかったのよ」
僕があの世界に行っている間、どうやら意識が無くなっていたらしい。
「あなた、なんであんなところにいたの?住職さんがね。あなたが倒れていることにすぐ気付いて、救急車を呼んでくれたのよ」
その後、お母さんはただ、よかった、よかったと繰り返した。
後ろめたい気持ちになる。僕は死んでしまおうとしていたのに・・・
僕はこれほどにお母さんを悲しめることを、裏切る行為を、やろうとしていたんだ。
目の前で悲しむ人を見ることが、こんなにも苦しいことだなんて知らなかった。
僕はお母さんの着ている服を眺める。それは緑色をした患者さん用の物だ。
僕には訊かなければならないことがある・・・。
「お母さん・・」
お母さんは顔を上げて、僕の顔を見つめた。
「赤ちゃん・・・お腹の中の赤ちゃんはどうしたの?」
僕が見つめる先にあるお母さんのお腹は、妊娠中とは程遠くぺしゃんこになっていた。
お母さんはまた泣き崩れる。泣いて泣いて、顔を上げようとはしなかった。
「千鶴!」
病室の入口から声がした。見ると、広幸さんが松葉づえをついて立っている。右足には大きなギブスがしてあった。そして僕を見て、驚いた表情をする。
「直樹君!・・・よかった、意識を取り戻したんだね」
広幸さんは心底ほっとしていた。
「千鶴、直樹君も意識を取り戻したんだから、自分の病室に戻ろう」
お母さんはしばらく抵抗していたが、広幸さんが連れてきた看護師さんと共に病室を後にして行った。
「直樹君、今、先生を呼んでくるからね」
「待ってください」
僕は広幸さんのことを縋るような目で呼び止めた。
「・・・どうしたの?」
「・・お母さんと広幸さんに何が遭ったんですか?・・・お腹の赤ちゃんは・・・どうなったんですか?」
広幸さんはどこか悲しそうに目を伏せる。そして徐にそばの丸椅子に座った。
「実は・・・病院に車で向かっている最中に交通事故に遭ってね・・・それは一度に沢山の人たちが巻き込まれた事故で・・・どうしても回避することはできない事故だった」
広幸さんは辛そうに、重たい口を開く。
「僕は足の骨を折って、千鶴さん・・君のお母さんはお腹を強くぶつけてしまったんだ」
広幸さんは唇を軽く噛む。
「お腹の中の赤ちゃんはね。その衝撃で死んでしまったんだよ」
〝僕は存在自体ありえない幻だから・・・叶わなかった夢だから・・・″
無の声が頭の中で強く響く。
〝バイバイ、お兄ちゃん″
無の最後の言葉が胸を貫く。
無は・・・あいつは、お母さんのお腹の中の〝胎児″だった。
僕の、弟だったんだ。
視界がぼやけて、涙が止めどなく流れ、嗚咽が漏れ出る。
どうして?
どうしてだよ。
もっと・・・もっと怒ってくれたらよかったのに。
自分は生きられないんだって。
自分は産まれてくることさえできないんだって。
〝死にたい″なんて言っている僕に、
そうやって罵声を浴びせてくれたってよかったのに。
どうしてだよ。
どうして君は、こんなにも僕を〝好き″でいてくれたの?
〝お兄ちゃん″と呼んでくれたの?
僕はきっと君のこと、恨んでいたんだよ。
僕の泣く姿に困惑している広幸さんの腕を、僕は強く引き寄せた。そしてその胸の中に顔を埋めて泣く。
僕はきっと、ずっとこうしたかったんだ。
誰かに、僕の心の叫びを受け止めてもらいたかったんだ。
お花も、盲目の人も、セミも、僕自身も、不幸なんかじゃなかった。
いや違う。幸せだとか不幸だとかいうのは関係ないんだ。
僕たちは生きている。
死んだらなくなってしまう全てを、僕たちはちゃんと持っている。
ちゃんとここに存在している。
それで十分だったのに・・・
〝名前はなんていうの?″
そう訊いたとき、無は・・・いや、あいつはどんな表情をしていただろう。
あいつには、名前がなかったんだ。
産まれていないから、名前すら貰っていなかったんだ。
だから、
生きられない存在だから。
生きる前に消えてしまうから。
自分のことを「無」だと言って
そうやって、僕に寂しそうに笑っていたんだ。
僕は広幸さんの胸に顔を押し付けて泣き続けた。広幸さんは、そんな僕の頭を優しく撫でる。
それはまるでお父さんみたいだった。