お婆さん
僕たちはお互い無言で歩いた。
果てしなく続くかに思えた草原の先に、初めて建物が見える。それは木造づくりの小さな民家で、取り残されたようにポツンと建っていた。
「なんで、あんなところに家が建ってるんだろう」
僕は思わず呟いていた。
そう呟いた矢先、中から人が出てくる。それは真っ白な白髪を蓄えたお婆さんだった。多分うちのおばあちゃんよりも年上だと思う。けれど、うちのおばあちゃんより背筋が伸びていて、どこか溌剌としていた。
「あら」
お婆さんが僕たちを目の端に捕えると、優しく笑いかけた。
「別の世界からのお客さんなんて、珍しいわね。しかもこんなに可愛らしい・・。よかったら上がって行きません?」
「いいんですか?」
無がお婆さんの顔色を伺う。
「ええ、もちろん。調度お腹も空いた頃でしょう。お昼、ご馳走するわ」
「本当ですか!」
無は「ヤッター」と言うと、満面の笑みを浮かべスキップしだした。無には、どこか無邪気で幼いところがある。
「おい!」
僕はその調子に付いていけなくて。その場に立ち尽くした。
「直樹も早くおいでよ」
無は、なんの躊躇もなく家の中に入っていく。仕方なく、僕も遅れて中に入った。
家の中はそんなに広くもなければ、狭くもなかった。必要以上の物は置いていなくて、よく整理整頓されている。うちとは大違いだ。どこからか懐かしい匂いもしてきた。
無はニコニコしながら大きな机の前で腰掛けていた。僕も隣に座る。
「もうすぐできるからね」
お婆さんはそう言って僕たちに微笑んだ。
テーブルに、底の深い、大きな大きな鍋が運ばれてくる。おそらく一人暮らしであるお婆さんが、どうしてこんな大きな鍋を持っているのか、不思議だった。
鍋の中身はどうやらシチューのようだ。牛乳の甘い香りが漂ってくる。
お婆さんは蓋を開けると、僕たち二人分の器をよそった。
「どうぞ、好きなだけ食べてちょうだい」
「ねぇ、ご飯を食べる前っていただきますって言うんだよね」
無は俺の右肩を左肘で突くと、小声で当たり前のことを訊いた。
「・・・そうだよ」
「じゃあ、いっただっきまーす!」
「・・・いただきます」
無は隣にいる僕が飛び上がってしまいそうな勢いで言った。
お婆さんは、そんな僕たちの様子を見て微笑んでいる。
大きな木製のスプーンでシチューを掬った。口元まで持ってきたときに、鮮やかな緑色の粒が、スプーンの中できらめくのを見つけてしまう。
僕は顔を顰め、器用にそれを避けてシチューを流し込むと、別の器にその緑色の物体を除けた。
「うわ、何これ」
隣の無が同じように顔を顰めている。
「おいしくないよ、この緑色の豆」
無はスプーンにその〝豆″を乗っけると、わざわざお婆さんに見せた。
「あらあら、二人ともグリンピース嫌いなの?」
お婆さんの言葉に、無が不思議そうにこちらを向く。
「あれ?直樹もおいしくなかったの?」
「元々嫌いだったんだよ」
僕は半ば不貞腐れて言った。
そんな僕たちの様子を見て、お婆さんが今度は声を立てて笑い出した。
僕たちは顔を見合わせて訝しげにお婆さんの顔を伺う。
「・・あら、ごめんなさい。あんまりあなた達がそっくりだったから」
「そんなに僕たち似てますか?」
僕は眉間に皺を寄せて訊いた。
「ええ、そっくりよ」
お婆さんがまた微笑む。僕はなんだか腑に落ちなかった。無とは今日初めて会ったばかりのはずだし、断固、僕はこんなにガキっぽくないはずだからだ。
無と一緒にいてどこか落ち着くのは確かだけど・・・。
無は「本当ですか!」と何度も訊いて、どこか嬉しそうに笑った。
「でも、好き嫌いがあるのはいけないわね。大きくなれないわよ」
「大きくなる必要なんてないんです」
ぽかんとした顔のお婆さんを、僕は軽く睨む。
「僕、死にたいんです。死に場所を見つけるためにここに来たんです。・・・お婆さん、どこかいい場所を知りませんか?」
僕の言葉と眼差しに、お婆さんの顔色はあからさまに沈んでいく。
「悲しいことを言うのね」
お婆さんはそう呟くと、シチューを一口掬った。僕は訳も分からずイライラしてきた。無はただ黙っている。
「・・・どうせ、死んでしまうんでしょ?生きているモノは、いつか死ぬんでしょう?じゃあ生きていたって何の意味があるんですか?何も残せないのに、なんで生きなきゃいけないんですか?」
僕はそう詰め寄った。お婆さんはスプーンをお皿の中に置くと、悲しげな表情で僕を見つめる。
「意味なんて必要なのかしら」
「えっ?」
「生きる意味なんて、本当に必要なのかしら」
誰も、テーブルの上の食事に手を付けようとはしない。
「ねえ・・野球は好き?」
「なんで突然、そんなこと訊くんですか?」
訝しげな表情をした僕に、お婆さんは小さく微笑みを浮かべる。
「私は好きよ。特に高校野球は毎年ワクワクさせられるわ」
よく分からないが、この世界でも高校野球は見ることができるらしい。
「・・・僕は嫌いです」
「でも、ルールは知っているわよね?」
僕は無言で肯定する。
「・・必ず試合をしたチームのどちらかは、負けてしまうものよね」
「・・・そんなの当たり前です」
お婆さんには、僕の冷たい反論を意に介した様子はない。
「高校野球なんて、実際話題になるのは優勝したチームだけで、他の負けて行った何百というチームは、ただの〝敗者″として終わっていくものよね」
お婆さんは、どこか遠い目をしている。僕はただ黙って聞くことしかできなかった。
「そこに意味はあったのかしら。負けてしまった、優勝できなかったチームには、毎日毎日練習してきた意味はあったのかしら」
僕は顔を上げて、お婆さんの顔を見つめた。切れ長の目の中から、澄んだ黒色の瞳が覗いている。
「〝勝つ″という試合の目的から考えれば、負けるということは、きっと全ての意味はなくしてしまうことのはずだわ。・・・そして、優勝するチーム以外の大半は〝負ける″ことしかできない。
それなのに、彼らは毎日毎日練習し続けるし、戦い続けるのよ。
ねぇ、もしも試合をする前から〝負ける″ことを教えられたとしたら、彼らはその試合を放棄してしまうのかしら。
私は違うと思うわ。彼らはそれでも戦うはずよ。
結果から見れば、あんなつらい練習をしてきて負けるなんて滑稽なことかもしれない。意味のないことかもしれない。でも、彼らにとってはきっと、結果が全てではないの。
きつい練習や、試合、それ自体に喜びがある。野球を通してかけがえのない仲間ができる。もちろん楽しいことばかりじゃないだろうけど、そこから学べることだってたくさんある」
「・・・そういったモノだって、死んでしまったら何もかもなくなってしまうんしょう?」
「・・・そうね。死んでしまわなくても、その内〝お別れ″は訪れるでしょう。きっと、ほんの一時期の幸せでしかないんでしょう。
けれど、〝なくなってしまう″ことだからこそ、大事だと思えるんじゃないかしら。今の幸せが、何よりも愛おしく思えるんじゃないかしら。
命も同じよ。生きていたって確かに、どうせみんな死んでしまうわ。自分が生きた証なんて、そうそう残せるものじゃない。死んだ人間は、時が流れるごとに消えていくだけ。生きている〝現在″はいつか消えてなくなるマヤカシなのかもしれない。
でも、だからこそ、生きている時間は尊いのよ」
「僕にはよく分かりません」
僕は俯いて、本心からそう言った。
「・・・お婆さんは、死にたいとか思ったことないんですか?」
冷めちゃうから食べなさいと言って、お婆さんもまたシチューを一口掬う。
「・・・あるわ。若いときにね。それこそ生きる意味なんてないんじゃないかと思ったことがある・・・
それで私はね、もう最初から、生きる意味なんて存在しないんだって思うことにしたの。だって生きているモノ全てが〝意味″を持ってるなんて、ちょっと出来過ぎてるじゃない?
そしたらね、なんだか気が楽になったの。私が今まで悩んできたことも、ちっぽけに見えてくるのよ。ああ、これも最終的には意味ないんだなぁって。
そして生きることが愛しくなった。このほんの一時の時間が、どうしようもなく大切に思えきた」
お婆さんはそこで短く間を置く。
「だって、死ぬと何もなくなってしまうんだったら、生きていないとダメじゃない。
〝意味″があるんだとしたら、生きている間にしかないじゃない。
その〝意味″も最終的には無駄なものでも、生きている間は〝意味″になるじゃない。
人は〝生きる意味″なんて勝手に主観的視点で命をみるけれど、きっと命は、生きること自体に意味があるのよ」
ごめんなさい、自分でも何を言っているのか分からなくなってきたわ、とお婆さんは小さく微笑んだ。
「・・・つまり、生きる意味はないけれど、生きること自体には意味があるってことですよね」
無が優等生さながらにまとめを口にした。その様子は得意になるわけでもなく、どこかさみしそうなものだった。
お婆さんも、そんな無のことを悲しそうに見つめる。
「・・・生きることがつらくても、生きること自体には意味があるんですか?」
僕はなおも、そう訊かずにはいられなかった。
「つらいときっていうのは、心に余裕がなくて、そこにある幸せに気付かないだけよ。きっといつか、心に余裕ができたときに生きていてよかったと思えるときがくるわ。私がそうだったようにね」
お婆さんはそう言うと唐突に、あの大きな大きな鍋を見つめた。
「・・・えらそうなことを言っているけれど、私も、もう死んでしまっていいかなって思っているの。それだけ精一杯生きてきたと思うから・・・
でもね、自分で死のうとは思わない。だって、残りの寿命分は生きてなきゃもったいないじゃない。死んだら本当になんの意味もなくなってしまうんだから・・・
あと、あなたに死んでほしくないのには、もう一つ理由があるの。
・・・私には、たくさんの子供がいてね・・・ほら、その鍋がこんなに大きいのはそのためよ。
やっぱり、自分の子供が自ら死んでしまうっていうのはつらいわ・・・
でも、その反面、元気に生きていてくれたらそれでいいの。もちろん、できることだったら幸せであってほしいけれど。どこかで元気にやっているんだろうと思えるだけで私は幸せになれる。もう子供たちは、なかなか会いには来てくれないから・・・
あなたにもきっと、生きているだけで幸せにできる存在がいるはずだわ」
「・・・会いにきてくれないのは寂しいですね」
無は、お婆さんのことを悲しそうに見つめる。
「・・そうね・・」
お婆さんはまた小さく微笑んだ。
僕らは残りのシチューを食べた。除けたグリンピースはお婆さんが二人分全部食べてくれた。
「じゃあね。お婆さん」
無が玄関の前で大きく手を振る。
「・・・」
お婆さんはなぜか黙ってしまうと、無のそばまで歩み出る。そして無の頭にそっと手を置いた。
「・・・あなたの思いは、きっと伝わるわ」
お婆さんはそう言って、なぜか僕のことを一瞥した。
「さようなら」
無はお婆さんに笑いかける。
「・・・さようなら」
お婆さんはどこか悲しげに、そう答えた。
僕たちはまた歩き出す。
生きること自体に意味がある―――
分かるようで、やっぱりよく分からなかった。
もし生きることが〝苦しい″なら、たとえ本当に生きること自体に意味があったとしても、つらいだけじゃないだろうか?
今ある幸せがどんなものかなんて分からない。それなのに無理して生きるなんて窮屈な気がする。僕の命なんだから。どうせ、僕がいなくなったって世界に大きな変化なんて起きないんだから。自分が死にたいんだったら死んだっていいじゃないか。
「ねぇ直樹、あれ見てよ!」
無が突然隣で叫び、前を指差す。
そこには、とびきり巨大な木があった。僕は上を見上げるが、うまく頂上を見ることはできない。その内に首の方が痛くなってくる。幹もやけに太く、大人五人が手を広げても届きそうになかった。
地面から一番近い太い枝には、誰が作ったのか二つのブランコが取り付けられている。
「あれってさ、ブランコだよね」
無が目を輝かせてそう言う。
「見りゃ分かるじゃん」
「うわー本物なんだ」
無は、冷たい視線を向ける僕にお構いなく感嘆の声を上げた。
「ねぇ、乗ろうよ!」
無は有無を言わさず僕の手を引いて駆けだす。
「おい!」
なんだか今日はずっと、無に振り回されてばっかりだ。でも不思議と、無とこうやって一緒にいることが嫌ではなかった。・・・なぜだか楽しいとさえ感じる自分がいた。
二人してブランコに乗る。無はブランコが大きく揺れるたびに「うおー」とか叫び声を上げて笑った。僕も無に負けないように大きくブランコを漕ぐ。
「もしかして、ブランコに乗るの初めてなの?」
「うん、・・・なんていうか、全部初めてなんだ」
「全部初めて?」
言っている意味がさっぱり分からなかった。
無はブランコから飛び下りる。
「ねぇ・・・直樹・・」
無はさみしそうな顔をして、何かを言いかけ口ごもる。
「木を揺らすんじゃない!!」
突然、上の方から怒声が響き無の言葉を遮った。
そして「ミーン、ミーン」というやかましい声が近づいて来る。
僕もブランコを降りる。しばらくすると、目の前にセミが現れた。しかも普通のセミではない。僕たちの三倍ほどの身長をもった大きなセミだ。
五、六匹が僕らを取り囲んでいた。
「夏の間はそのブランコに乗ったらいけないんだぞ!当たり前のことじゃないか!」
そんな当たり前聞いたことない。本当にここは変な世界だ。
「すいません」
無は少し泣き出しそうになりながら謝った。
セミが追い打ちをかけるように近づいてくる。そしてじっと僕たちのことを観察した。
「・・・お前たち、ここの世界の者ではないな?なんでこんなところにいるんだ。さっさと自分の世界に帰れ!」
セミはなりふり構わず叫んだ。
「死に場所を探しに来たんです」
僕はセミに臆せず言った。
「死に場所を探しに?」
「はい、セミさん、どこかいい場所を知りませんか?」
僕がそう言うとセミの「ミーン、ミーン」となく声が一段と強くなった。鼓膜が今にも破れてしまいそうだ。
「お前が死ぬっていうのか?」
「はい」
セミは、まるで僕に聞かせようとするように大きく舌打ちした。
「幸せなくせに」
花やあの若い男と同じことをセミが言う。
「僕が・・幸せ?」
「ああ、そうだよ」
「一体どこが幸せだっていうんですか?」
セミの鳴く声がまた強くなる。
「ふざけんな!お前はそれだけたくさん生きられるじゃないか!
オレたちはな、大人になったらたった七日間しか生きられないと〝決められて″いるんだ」
セミは、僕のことを一心に睨んでいた。
「ずっと、ずっと、暗い土の中に独りでいて、やっと外の世界に出られた、仲間に会えたと思ったら、オレたちの寿命はほんの少ししかないと知らされる。
お前に、この絶望が分かるのか?」
セミは一層激しく鳴いて、鳴いて、泣いた。
「おまえもオレたちと同じ寿命だったら、本当にそんなふざけたことが言えるのかよ」
セミはそう吐き捨てた。
「とにかくここでは死ぬな。お前みたいな奴を見ているとイライラしてくる。一生懸命生きているオレたちに失礼だ。
つらくてもな、それでも生きている奴だっているんだよ」
セミはそう言って、僕への当てつけのように周りを忙しなく飛び交うと、空高く飛んで行った。
〝つらくてもな、それでも生きている奴だっているんだよ″
セミの最後の言葉が耳元に張り付く。
ああ、そうだ。どんなにつらくても、どんなに悲しくても生きている人だっているよ。どうせ僕は・・・
「どうせ僕はだめな人間だよ」
思わず口に出す。
「どうせ僕は弱くて、最低で、見っとも無くて、他の人だったら耐えられることにも音を上げる、そんな人間だよ」
やり場のない思いがどんどん怒りへと変わっていく。目から涙が出てきた。
「どうしてだよ!」
僕は無に怒鳴った。心配げに僕を見つめていた無の動きが止まる。
「君は、僕の願いを叶えるために来たんだろう!もっと真剣にやってよ。こんなんじゃ、全然死ねないじゃないか。
僕は嫌なんだよ。生きたくなんかないんだよ。どうせ生きてたって、つらいだけだ」
今まで忘れていたクラスメイトの冷たい視線が、冷たい笑い声を思い出す。蹴られたときのように腹が痛んでくる。上級生が〝早く行けよ″と耳元で囁く声が聞こえて来る。家での疎外感が胸を貫く。
無は暗く、沈んだ表情をした。今にも泣きだしてしまいそうだった。
「・・・わかったよ」
無は僕の手を引くと、この世界に着たときと同じように口笛を吹いた―――