盲目の人
僕たちは草原をひたすら歩いた。しばらくすると目の前に小道が現れる。無がその道に入っていくので僕も続いた。
前から男の人が歩いて来た。歳は二十歳前後で、入院患者のようなヨレヨレした服を着ている。左手には、その恰好とは不釣り合いに高級そうな時計がしてあった。どこか足取りが覚束ない。まっすぐな道をわざわざ左右に蛇行しながら歩いている。
無がその横を通り抜けようとした。しかし、無の反対側にいたはずの男が振り子のように無の方へよろける。
二人は頭をぶつかって、その場に尻餅をついた。
「いたっ・・」
男は顔を顰めて頭をさすった。
「すいません!」
無は慌てて男に謝った。僕は二人に駆け寄る。なんで無が謝るんだろう、どちらかというと変な歩き方をしているこの人が悪いだろうに。
「あれ?人がいたのかい?おかしいな、そんな気配しなかったのに・・・。やっぱり杖を持ってくるべきだったか」
男は突然、僕の方を向いた。
「君は?」
「あの・・この子の友達です」
男の目を見て怖いような変な気持ちがした。僕を見ているはずの男の目が、どこにも焦点を合わせずに、浮遊している。
「ごめん、君の友達はどこにいるのかな?」
男はわざとなのか、無のいるのとはまるっきり反対側に顔を向ける。
「反対ですよ」
男は僕の指摘で、ようやく無の方を向いた。
「いや、本当にごめんね、実は目が見えなくてね」
「えっ、でも僕がここにいることは分かりましたよね?」
僕は口を挟む。
「気配だよ。目が見えなくなってから〝生きているモノ″の気配にだいぶ敏感になってね、見えなくても分かるんだ」
男はそう言って笑った。
「僕の気配はしないんですね」
無はまたさみしそうに笑った。
「私も不思議なんだ、どうしてだろう?」
「お兄さんは何も間違っていませんよ。むしろ正しいですから」
そうなのかな?と男は無の答えに釈然としない顔をする。
「ところで君たち、ここで何をしてるんだい?ここの世界の者じゃないよね」
世界がどうとか、気配でそこまで分かるのだろうか。
「死に場所を探しているんです・・・お兄さん、どこか静かに死ねる場所を知りませんか?」
僕は、花のときと同じように訊いた。
「死ぬって、君がかい?」
「はい」
男は眉間に皺を寄せ、顔全体を歪めた。
「そんなに幸せなのに?」
花も言っていた問いかけを、この男がまた言う。
「一体、僕のどこが幸せだって言うんですか?」
「・・・君は本当の絶望を知らないだろ」
男はなぜだか少し怒っていた。
「ボクの目は生まれつき見えなかったわけじゃない。ある日突然、前触れもなく見えなくなった。君には想像できるかい?光を失うということがどういうことなのか。寝ても起きても真っ暗闇で生きる孤独を、恐怖を」
男は左腕を上げた。何かを確認するようにゆっくりとした動作だった。左腕に嵌められた時計がきらめく。
「笑っちゃうだろ?もうボクには今日が何月何日で、今が何時何分なのか自分で確かめることもできないんだ。人から聞いたことを事実だと受け入れるしかない。もしかしたらずっと嘘を教えられているのかもしれない。けれど、ボクはそれを確かめる術を持っていないんだ。こんなこと、些細な、取るに足りないことだよ。でもね、そんな小さなことの積み重ねが無償に悲しくなるときがあるんだ。腹が立つときがあるんだ。
この時計は父親の形見だった。目の見えないボクにはきっともう必要のないものだ。耳を澄ましたら、針の動く音が聞こえてくるわけでもない。ただの重りみたいなものだよ。
それでもボクは毎日この時計を嵌めている。正直、自分でもバカだと思うよ。でもね、突然光を奪われた、世界から取り残されたボクにとって、この〝重み″は〝支え″だったんだ。
他人から見捨てられたら生きていけない自分に、唯一〝お前は独りじゃない″って言ってくれるものだった」
男は僕に焦点の合わない目線を向けた。
「君は今、このすばらしい草原の姿を見ることができるんだろ?君を大切にしてくれる人の姿を、君が大切な人の姿を見ることができるんだろ?もしかしたら、いなくなっちゃうかもしれない、見捨てられるかもしれないなんて不安な気持ちにはならないんだろ?
これからも君には、この素晴らしい世界を見ることができる。目に焼き付けることができる。羨ましいよ。ボクは君が羨ましい」
最後の方は弱々しい声になっていた。
「とにかく、ここでは死なないでくれ。君くらいの絶望で死ぬなんて許せない」
声の調子が変わる。男の剣呑な雰囲気に圧倒された。
「・・先に行こう」
無は静かに言うと、僕の手を引いた。
僕は振り返って男のことを見つめた。男は俯いたまま背を向け、その場に突っ立っている。その背中は、思った以上に小さい。
なんだか無償に腹が立ってきた。
あんたの苦しみが「本当の絶望」であるという根拠は一体何なんだ?
僕の絶望が「大したことない」と言える根拠は何だって言うんだ。
確かに、僕は目が見えないわけでも、耳が聞こえないわけでも、足が動かないわけでもない。あんたが今まで味わってきた苦しみは知らないよ。理解できないよ。
でも、あんただって同じだろ?
あんたは僕の苦しみが分かるのか?
僕の生きてきた時間の全てを知っているのか?
もし、あんたの目が見えたとして、
僕の苦しみを味わったとして、
それを「絶望」でないと言い切れるのか?
男が前に歩き出す。こちらを振り向いてくることはなかった。姿がどんどん小さくなって仕舞には見えなくなる。