花
足にやわらかい感触がした。
「ついたよ」
その子がそう言うと、僕らを包んでいた風はすっとなくなっていった。まるで最初からなかったみたいだ。風がなくなって視界が広がる。僕は周りの景色を見て驚いた。僕たちは小さな丘の上に立っていた。そばには一本の木がある。体をぐるっと回転してみると、見たこともないくらい広い草原が広がっていた。一面が緑色の大自然だ。今さっきまでお寺の林にいたはずなのに、一体何が起こっているんだろう。これは現実だろうか?
少し暑くて僕はセーターを脱いでその一本の木にかけた。ここの季節はどうやら夏のようだ。
「ここは一体・・・」
「君がいた世界とは違う、まあ、おとぎの国のようなものかな・・・」
「君は何者なの?」
おどおどとしている僕を見て、その子は笑いだした。
「言ったじゃないか、君の願いをかなえるための遣いだって」
嘘だと思ったが口には出さない。
「・・でも、ホント嬉しいな。直樹に会えて」
「君は僕の名前をどうして知っているの?」
「直樹のことだったらなんでも知ってるよ。相馬直樹、運動は苦手、勉強は割と得意、ゲームが大好き。お母さんの名前は相馬千鶴で、お父さんは相馬広幸」
「違うよ、広幸さんはお父さんなんかじゃない」
僕は無意識に、吐き捨てるように言っていた。
「・・・そうだね。直樹にとってはその通りだ」
その子はさみしそうに笑う。
「じゃあ、行こうか、死に場所探し」
「ちょっと待って」
その子は不意を突かれたのか、僕のことを不思議そうに見つめた。
「何?」
「君のこと何も訊いてない」
「僕のこと?さっき遣いだって言ったよね?」
その子は自分のことを人差し指で指差す。
「違うよ、名前。名前はなんていうの?」
「・・名前・・」
その子は虚を衝かれたようにそう呟くと、下を向いて顔を歪めた。
「・・いや、だって呼ぶとき困るでしょ?」
僕はその反応に少し驚き、慌てて付け加えた。その子は何かを考え込み黙ってしまう。温かい風が、僕らの間を吹き抜けていた。
「〝ム″かな」
しばらくすると、その子は僕と目を合わさずに、ポツリと呟いた。
「僕の名前は〝ない″っていう意味の〝ム″さ」
「〝ム″?」
「そう、無意味の無と書いて〝無″」
無はそう言って僕に笑いかける。でもどこか悲しそうな顔だった。
「なんでそんな変な名前なの?」
「それは・・・」
無はこの世界に広がる空を見上げた。空は澄んだ青色をしている。
「・・僕は存在自体ありえない、幻だから。・・叶わなかった夢だから・・・」
無はただ空を見上げていた。そしてどこかさみしそうな笑顔を作る。それが何を訴えようとしているのか僕には分からなかった。
無の言葉は正しいことのように思えた。僕をこんな〝別の″世界に連れてくるなんて、まるで魔法だ。幻や夢と呼ぶのは当然な気さえする。
でも、違う気がした。自分でもよく分からない。なぜか違うだろうと思った。
戸惑っている僕の手を無が握る。その力はどこか弱かった。そして僕に笑いかける。
「じゃあ、行こうか!」
そう言って無は突然駆け出した。
「ちょっと待って・・」
僕は無の握った手に引っ張られる。無は笑いながら無邪気に走った。不思議なくらい、とても楽しそうだった。僕は引きずられるようにして付いていく。
草原の真ん中に来て無がそのままの勢いでスライディングする。手を握られた僕も一緒に倒れ込む。無は笑いながら、僕から手を放すと仰向けになった。
僕も仰向けになって、いつの間にか笑い出していた。空は綺麗な青色をしている。
なんだろう。不思議と無と一緒にいると落ち着く気がした。やっぱり僕、どこかで無と会っているのかもしれない。
「なんで走るんだよ」
半ば息を切らしながら僕は訊いた。
「だって、やってみたかったから・・・今しかチャンスないもん」
無は空に向けて両手を伸ばした。何かを必死で掴もうとしているように見える。僕は〝走る″なんていつでもできるだろうに、と思いながら無のことを見つめた。
「あなたたち何者?」
突然、女の人の声が聞こえてきた。僕は慌てて起き上がると、辺りを見まわす。けれど、人っ子ひとりいやしなかった。
僕の困惑している様子を見て、無は耐えきれなくなったように笑い出す。
「違うよ。そっちじゃなくてもっと下の方見なくちゃ」
そう言って無はある一点を指差した。僕は、その指先の差す方向を目で追う。
そこには、一輪の赤い花があった。絵に描いたように小さく、綺麗な花だった。
「まあ、指差すなんて失礼しちゃうわ」
「ごめんなさい、お花さん」
無は赤い花に向かって微笑む。
「この花がしゃべってるの?」
僕は思わず人差し指を突出して、赤い花に向ける。
「だから、指差さないでちょうだい!」
花に怒られて思わずたじろぐ。無はその様子を見て可笑しそうに笑った。
「言っただろ?この世界はおとぎの国のようなものだって」
そんなこと言ったって、花がしゃべりだすなんて予想外だよ。この世界はなんでもありなわけ?
「それで?あなた達何者?二人とも、この世界の者ではないでしょう。なんでこんなところにいるの?」
花はやけにぶっきら棒だ。
どこが口でどこが目として働いているのか、気になって仕方なかったが、それを訊くのはなんだか失礼な気がしてやめておく。
「実は、死に場所を探しているんです。お花さん、この近くに静かに死ねる場所ありませんか?」
「誰が死ぬっていうの?」
花は訝しげに訊く。
「僕です」
刺すような沈黙が横たわる。
「そんなに幸せなのに?」
花が、今度は悲しそうに言った。
「僕が・・幸せ?」
「そうよ」
「一体どこが?」
花は俺の言葉を聞くと俯いた。
「あなた達は私たち植物と違って、いろんなところを歩いて移動することができるじゃない。
私たちはね、生まれた場所にずっといなければならないの。どんなに退屈でも同じ風景を見ていなければならないし。動ける存在から傷つけられたり、自然の驚異に晒されたりしても、それを受け入れることしかできない。
・・・もっと見てみたいわ、外の世界がどうなっているのか。・・・そして、できることなら友達が欲しい。だってもう、こんな何もないところに独りでいるなんて耐えられないもの。私はとてもとても、あなた達が羨ましいのよ」
僕は辺りを見回してみた。この赤い花以外、一輪の花も咲いてはいなかった。きっとこの花は、生まれてからずっと孤独だったのだ。
「とにかく、ここでは死なないで!あなたが死ぬところなんて見たくないわ」
花は刺々しく怒っていた。
僕が反論しようとするのを無が止めた。
「行こう」
無は静かに僕の手を引く。
僕たちは歩き出した。あの花が言っていることはよく分からない。あの花は何も知らない。いろんなところを移動できて違う風景が見れたって、いつかはそれにも飽きるんだ。「友達が欲しい」って言うけどお花さん、君は自分の存在が否定されるかもしれないって考えないの?拒否されるかもしれないって考えないの?自由に移動できたとしても、君の望むような世界は広がってないよ。花の生きられる環境なんて限られてるよ。
お花さん、君は幸せなんじゃないの?何も知らなければそうやって夢を見ることができるんだから。