なぞの少年
昨日、流れ星が流れたらしい。
僕は全然気が付かなかった。自分の部屋に籠っていて、窓の外なんて見てなかったのだ。けれど、お母さんと広幸さんは見たらしい。いや、二人だけじゃなかった。お腹の中にいる赤ちゃんも含めると三人。
今朝、お母さんは幸せそうに言った、「出産前に良いものを見た」って。広幸さんはそれに笑いかけていた。同じ食卓にいるはずなのに、僕はそれをどこか遠くで眺めている。僕は最後に残った、どうしても当てはまらないパズルのピースだった。当てはまらないのも仕方がない。きっと、別のパズルのピースが混ざりこんでいるんだから。
お母さんは流れ星を見て何を願ったのかな?
ご飯をのりで巻きながら考えてみる。きっとお腹の子の健康とか、そんなことを願ったんじゃないかな。
少なくとも僕のことじゃないだろう。
味噌汁を飲むが、心なしか薄かった。
「じゃあ、行ってきます」
玄関に立って、お母さんと広幸さんは僕に笑いかけてそう言った。そしてお互いに顔を見合わせて微笑む。今日、お母さんは病院に入院することになっていた。出産がもうすぐ近いからだ。僕はその二人の笑顔に一応、笑い返した。
でも、本気で笑うことはできなかった。
外で車がエンジン音を立てながら遠のいていく。僕はその音が聞こえなくなるまで玄関前でじっと突っ立ていた。
僕がその流れ星を見ていたら、何を願っていただろう――。
二階にある自分の部屋に向かう。中に入ると、誰もいないのに鍵をかけた。もう学校に行かなきゃいけない時間だったけど、まったく行く気が出てこなかった。
勉強机の唯一鍵の付いた引き出しを開ける。そこには漫画の本がたくさん入っていた。
〝お前の分、持って帰れよ″耳元で囁くような声が聞こえてくる。
漫画は、まったく同じものが二組存在しているものがある。一つはビニールで包まれ新品同然で、一つは何もついていない。ふと僕が読みたかった最新刊の漫画が入っているのを発見した。しかし、その漫画にはビニールが付いていて、他にビニールがついていないものはなかった。
僕はそっとその漫画を取り出した。勉強机の椅子に腰かけると、左頬を机に張り付けて、じっとその漫画を眺める。
開けてしまおうか・・・いや・・だめだ。
そんな葛藤が僕の心を疼かせた。
急に涙が出てきた。僕は一体何なんだろう。学校にいる間の、あの刺すような視線を思い出す。僕はきっと空気だ。まるで最初からなかったみたいに。みんな無視を通り越して僕に嫌悪さえ抱いている。
蹴られる感覚を思い出す。脇腹が疼く。高らかに笑う声も聞こえてきた。
頭がこの回路に入ると必ず最後に浮かぶのは本屋だった。
〝早く行けよ″また耳元で囁く声が聞こえる。
僕はいつもおどおどした心を必死で押さえつける。必死で平静を装って本屋の中に入るんだ。そして漫画を眺めている振りをして、店員の様子を観察する。僕は手提げを持っている。それが一番〝やりやすい″からだ。下に積み上げてある漫画を数冊手提げの中に入れる。別に同じものでもいい。大半はどこかで売ってお金にしているらしいから。それが終わると、僕はまた必死に平静な自分をつくる。口をへの字に曲げて、ひねくれたガキを作り出す。でも、きっと僕がやっているから迫力には欠けている。大事なことは、何?普通の客ですけどって心の底から自分自身も騙すこと。
外に出る。〝行けよ″と言った上級生はすぐ外にはいない。もっと遠くの公園の方で待っている。それが安全だからだ。もし僕が捕まっても、彼らは悪くないのだ。途中で逃げ出してしまおうと思ったことはいくらだってあった。けれど、あとあと暴力を振われるか、お金をカツアゲされるか、〝命令″に従わなかった場合の行先は決まっている。
それに、もうだめだった。僕が〝命令″に従わなかったら万引きのことをばらされてしまう。奴らに命令されたと訴えたところで、そこには証拠は存在しなかった。極めて陰湿に物事は実行されている。そして僕は、この通り証拠を大切に保管しているのだ。逃れられない。奴らはこうなることを分かっていて、万引きした漫画をいくらか渡してくるのだろう。「おまえも犯罪者だからな」と言いたいのだ。いや、もしくは「おまえが犯罪者だからな」と言いたいのだ。彼らは僕に、万引きした漫画を売りに行く勇気なんてないことを知っている。
学校にいても独りだった。休み時間は適当に外に出て、グランドからできるだけ離れたところに行く。体育館裏とか、そんなところに行って、ただ時間を潰す。サッカーだとか野球だとか僕が仲間に入っても嫌な顔されるだけだった。体育は無理矢理チームプレーの中に入れられるから嫌いだ。〝邪魔″だと思われている場所に、なんでわざわざ存在していなければならないのか分からない。
僕は「いない存在」なんだよ。
僕は漫画を引き出しの中にしまうと、机の上に置いてある写真立てを見た。そこにはお母さんと広幸さんと僕が写っている。僕は、いちおうぎこちない笑顔を浮かべていた。
僕は写真立てを手に取り、裏側を開いた。その写真の下にもう一枚色あせた写真が入っている。それは病室の写真だった。ベッドの上でやさしい笑顔を向けた男の人と幼稚園の頃の僕が写っている。
「お父さん」
知らぬ間に呟いていた。僕はずっとこの写真を飾っていた。だけど広幸さんとお母さんが結婚して、お母さんに写真立ての中身を変えるように言われたのだ。お母さんにとって、広幸さんとの結婚は再婚なのである。
〝広幸さんが見ると悪いでしょ?″〝私たちも前進しなきゃだめなのよ″お母さんはそう言っていた。お母さん自身も、お父さんの写真や物を努めて押入れの中に押しやった。いつの間にか、家の中でお父さんの写真が見られるのは仏壇だけになっていた。
でも、僕のお父さんは、お父さんだけなんだ。
お母さんから〝そろそろ広幸さんのこと、お父さんって呼ばない?″って言われたけど、聞いてやるもんか。
お父さんが何の病気だったのかは知らない。でも、この写真を撮って一年もしない内に死んでしまった。小学校に上がって周りからお父さんのことを訊かれたら、苦笑いで返した。他人がお父さんの話をすると耳を塞ぎたくなった。
〝強くなれよ″
お父さんの声が聞こえてくる。そう言われて頭を撫でられた。お父さんはいつものように優しく笑っていた。この言葉はお父さんの僕に対する口癖だ。
僕は今〝強くなっている″だろうか?
いや、絶対なれてない。むしろ弱者代表みたいなもんだ。
変わりたいよ。変わらなきゃいけないんだって分かってるよ。
でもお父さん、変われって言われて変われるなら、とっくに変わってる。強くなれてる。
僕はお父さんの写真をじっと見つめ続けた。
ねぇ、お父さん、僕、家でも独りなんだ。お母さんが妊娠して、なんだか僕の知っているお母さんじゃなくなった気がするんだ。なんだかうまく、心の歯車が噛みあわないんだよ。
僕は服の袖で、必死に目を擦る。
弟なんていらない。弟なんてほしくないよ。
また、涙が出てくる。僕は犯罪者で、弱虫で、いない存在なんだ。
僕はゆっくりと立ち上がった。ドアに近づいて鍵を開ける。足が階段に一段一段沈んでいくと、まっすぐキッチンに向かった。戸棚を開けて包丁を取り出す。それを手に持つと、じっと眺めた。
こんなもので人は死ねるんだ。
「リセット」しよう。うまくいかなかった人生は「リセット」しよう。僕をいじめているあいつらに、一生の心の傷を負わせてやろう。
死ぬんだ。自殺するんだ。
だって、どうせ死ぬんでしょ?生きているモノは必ず死んじゃうんでしょ?だったら生きていたって何になるの?その「生きた」って過程は何のためにあるの?
僕はきっと願ったよ。流れ星を見ていたら「死にたい」って。楽だもの。生きているより死んでしまった方がずっと楽。
僕はソファに置いてあった黒いランドセルの中に包丁を入れた。ランドセルに似合わないものだから、入れる時違和感がした。
どこで死ぬかはもう決めている。
ランドセルを背負った。今から学校に行こうとしても間に合う時間ではない。ランドセルをしているのは近所の大人にできるだけ声をかけられないようにするためだ。
僕は玄関の外に出る。季節は冬だった。セーターを着込んでいたが、それでも寒かった。胸がドキドキしてくる。死に場所に行くまでの周りの景色は、いつもよりねじ曲がって見えた。理由もなく、誰かから見られている気がする。人の話す声が一際大きく聞こえる。
学校の通学路からはずれる。手の平に冷や汗をかいた。誰か周りにいるけど、決して目を合わせないようにする。そんな僕は、自分の予想ほど目立ってなかったみたいだ。死に場所に行くまで誰からも声をかけられなかった。
足にさっきまでのアスファルトとは違う感触がする。ジャリジャリ音がした。ここにはなぜか小さな石が敷きつめられている。ここはお寺だった。奥に広い林がある。そこでは毎年首を吊って死ぬ人がいるらしい。僕はヒモの準備が大変そうだから包丁で死のうと思う。きっと、こっちの方が簡単だ。
僕はランドセルから包丁を出した。
ほら、こんなふうに日常の中にも凶器はある。
包丁を両手で握った。これを体に刺せば死ねる。楽になれる。お父さんに会える。
僕はそっと包丁を首に近づけた。
首筋に包丁の刃があたり、ひんやりとした冷たさが伝わってくる。
包丁を持つ手が汗でにじんだ。呼吸も激しくなる。そして――――
「ねぇ」
突然の声。僕はとっさに包丁を隠した。誰だ、と思って振り返ると、そこには少年が立っていた。身長は調度僕と同じくらいで、どこか楽しげな笑顔をこちらに向けている。
どうも奇妙だった。
僕が言えたことじゃないが学校はどうしたんだろう?服装もこんな真冬に半そで、短パンで少し汚れていた。それに、この近所に住んでいるなら学校で見かけたことがあってもいいはずなのに、見覚えがなかった。
・・・いや、確かに学校ではないけれど、どこかで会っている気がする。気のせいかもしれないけど。
「ねぇ、君、直樹君だよね」
「うん、そうだけど・・」
得体の知れないその子は、嬉しそうにはにかんだ。
「よかった!会いたかったんだ」
「会いたかった?」
「そう!」
「なんで?」
その子は少し間を置いて、何かを考えて口を開く。
「僕は君への〝遣い″だからさ」
「はっ?」
何を言い出したのか訳が分からなかった。その子はなおもニコニコしている。僕は思わず眉間に皺を寄せ訝しげに見つめ返していた。
「ほら、昨日流れ星が流れただろう?それで君の願いを叶えることになったんだよ」
「僕の願いを?」
「そうだよ。流れ星が流れたらね。願いをかけた人の願いをたった一人だけ叶えることになっているんだ。これ、タカラクジが当たるよりカクリツが低いんだよ」
「宝くじ」とか「確率」とか言う単語を、その子はたどたどしく連ねる。そしてふざけた調子から一変して真顔を作った。その姿は、なぜだか物悲しさを漂わせていた。
「君、死にたいんだよね?」
その一言に血の気が引いた。なんでこの子はそのことを知っているんだろう。額から嫌な汗が出てくる。
「でも、ここで死んだらだめだよ」
「なんでだよ」
「ほら、あっち見てみなよ」
その子はそう言ってお寺の方を指差した。住職さんがこちらの方を訝しげに睨み付けている姿が見えた。
「ここで死んでも、どうせ死にきれないよ」
僕は頭が混乱してきた。この子の言っていることはどう考えても辻褄が合わない。
でも・・・利用できるんじゃないか?
「じゃあさ・・・。僕の願いを叶えてよ。僕を静かに死ねる場所までつれてって」
「えっ」
その子は明らかに困惑した表情を見せる。
「君は僕の願いをかなえるために来たんでしょ?」
さらにその子の顔は曇っていった。
「・・いいよ、じゃあこことは違う世界に行こう」
唐突にそう言うと、その子は僕の手を握った。そして口笛を吹き始める。「ヒューーー」という音が僕たちの周りを包む。その音に呼応するように風が張り付いてくる。その風はいつの間にか嵐のように激しくなっていた。ふわっと浮いた感覚がした。風が周りを包んで向こう側がどうなっているかは分からない。けれど僕たちは〝飛んでいた″。それは感覚的に十分わかることだった。
この子は一体何者だろう?なんで嘘つくんだろう・・。本当に神様の遣いだとしたら、神様は何かを間違えている。