表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
おにさん、どうぞこちらへ  作者: かとうとか
8/17

 春子の額には傷がある。


 子供の頃に、川で転んだ時に付いた傷だ。


 頭から眉毛の上まで、十針以上も縫っているため、普段は前髪で隠すようにしている。傷跡を触るとぼこぼこして百足でも入っているようだ。


 そういえば、川で転んだ時に誰かがずっと自分の名前を呼んでいた。正直なところ、頭を打った瞬間から記憶が定かではなく、目を覚ましたら布団の中にいた。祖母が、とても心配そうに顔を覗き込んでいて、母親は喚くように怒りの言葉を発していた。筑紫は謝罪を繰り返し、自分のせいだと頭を下げていた。桜子は? 桜子は、あの時どこにいただろう。麦わら帽子を放り投げた桜子。傲慢で、我が儘で、強くか弱い、たった一人の姉。どこにいたのだろうか。


「春子さん、それ、僕がやりますよ、もともと、僕の責任やし……」


 心臓が跳び上がるような気がした。春子は、手に持ったスコップを落とす。


 彼女の前には、土を掻き出した穴があり、そうして、穴の底には、黒い塊が収まっていた。


「涼くん」


 振り返ると、背の低い少年が立っていた。少年は、半袖のシャツを着ていた。疲れ切ったような青い顔をしていて、健康とは思えない。


「すんません」


 声変わり前の女のような声は、訛りの激しいこの土地らしい言葉遣いだった。


 少年は春子の隣に座ると、黒い塊に土をかけ始める。


「はじめは、なんやろうと思ったんです……」


 ぽつりと少年は呟く。


 少年の細長い指が土を払うたびに、塊は見えなくなってゆく。


 森の中は、湿気った空気が滞留していた。木々が生い茂り、黒い虫が地面の上を走り回っている。草や花が野放図に生えて、それらを踏まないようにするのは不可能だ。食べられる草もあるらしいが、春子にはどれも同じ緑色の葉にしか見えない。そのうちなにもかもすべてが草に覆われるような怖さを覚える。


「いつもとおんなじように、お宅に野菜を持っていったら、帰る時に桜子さんの声がして、なんやろうと部屋を覗いたんです。そしたら、『鯉が欲しい』って言うから、なんでですかて訊いたら、『食べるの』って。変やなあ、と思ったんですけど、『どうしても』と言うからあげました。まさかそれが猫の餌やなんて……」


 春子は野菜の届いた日のことを思い出していた。一昨日の夕方、台所に人参や胡瓜などが箱に収まったまま置かれていたのを見た。母がそれらを選別して、虫食いがどうのと愚痴をこぼしていたのをよく覚えている。文句があるなら、貰わなければいいのに、と子どもの春子はそう思う。


「たもで捕まえたの?」


 確か、池の近くに鯉をすくうたもが置かれていたはずだ。


「そうです」


 黒い塊は、土に埋もれて、もうほとんど姿が見えなくなっていた。少年は、黒い塊を完全に埋めてしまうと、最後にスコップで土をならしていった。土をかけるたびに、団子虫が這い出てくる。


「可哀想になぁ、まだ小さいのに……」


 春子は、猫を運んできた布を丁寧にたたんで、スカートのポケットへ納める。


「悪いことしたなぁ……」


 蝉の鳴き声が、やむことなく続き、振り返ると、屋敷の屋根瓦が見えた。風呂場の煙突から黒い煙が出ている。母が火を焚いているのだろう。煙突の掃除は、手伝いの人間に頼んでいるが、風呂は家族が沸かす。まずは紙に火を付け、乾燥した杉を燃やして。火加減がうまくいかないと、また、春子の母は癇癪を起こすだろう。まるで、それで人生のすべてが台無しになったように。わめき散らす。


 春子は少年に礼を言った。昼食を一緒に食べないかと提案したが、彼は首を振った。


「すんません。お誘い嬉しいんですが、畑の様子見なかんで……、もう行きます」


 彼は何度も頭を下げて、そう言った。


「ありがとう、涼くん」


 山を下りていく少年の曲がった背中を見つめながら、春子は一人溜息を付く。


 足元には、もう穴はない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ