八
春子の額には傷がある。
子供の頃に、川で転んだ時に付いた傷だ。
頭から眉毛の上まで、十針以上も縫っているため、普段は前髪で隠すようにしている。傷跡を触るとぼこぼこして百足でも入っているようだ。
そういえば、川で転んだ時に誰かがずっと自分の名前を呼んでいた。正直なところ、頭を打った瞬間から記憶が定かではなく、目を覚ましたら布団の中にいた。祖母が、とても心配そうに顔を覗き込んでいて、母親は喚くように怒りの言葉を発していた。筑紫は謝罪を繰り返し、自分のせいだと頭を下げていた。桜子は? 桜子は、あの時どこにいただろう。麦わら帽子を放り投げた桜子。傲慢で、我が儘で、強くか弱い、たった一人の姉。どこにいたのだろうか。
「春子さん、それ、僕がやりますよ、もともと、僕の責任やし……」
心臓が跳び上がるような気がした。春子は、手に持ったスコップを落とす。
彼女の前には、土を掻き出した穴があり、そうして、穴の底には、黒い塊が収まっていた。
「涼くん」
振り返ると、背の低い少年が立っていた。少年は、半袖のシャツを着ていた。疲れ切ったような青い顔をしていて、健康とは思えない。
「すんません」
声変わり前の女のような声は、訛りの激しいこの土地らしい言葉遣いだった。
少年は春子の隣に座ると、黒い塊に土をかけ始める。
「はじめは、なんやろうと思ったんです……」
ぽつりと少年は呟く。
少年の細長い指が土を払うたびに、塊は見えなくなってゆく。
森の中は、湿気った空気が滞留していた。木々が生い茂り、黒い虫が地面の上を走り回っている。草や花が野放図に生えて、それらを踏まないようにするのは不可能だ。食べられる草もあるらしいが、春子にはどれも同じ緑色の葉にしか見えない。そのうちなにもかもすべてが草に覆われるような怖さを覚える。
「いつもとおんなじように、お宅に野菜を持っていったら、帰る時に桜子さんの声がして、なんやろうと部屋を覗いたんです。そしたら、『鯉が欲しい』って言うから、なんでですかて訊いたら、『食べるの』って。変やなあ、と思ったんですけど、『どうしても』と言うからあげました。まさかそれが猫の餌やなんて……」
春子は野菜の届いた日のことを思い出していた。一昨日の夕方、台所に人参や胡瓜などが箱に収まったまま置かれていたのを見た。母がそれらを選別して、虫食いがどうのと愚痴をこぼしていたのをよく覚えている。文句があるなら、貰わなければいいのに、と子どもの春子はそう思う。
「たもで捕まえたの?」
確か、池の近くに鯉をすくうたもが置かれていたはずだ。
「そうです」
黒い塊は、土に埋もれて、もうほとんど姿が見えなくなっていた。少年は、黒い塊を完全に埋めてしまうと、最後にスコップで土をならしていった。土をかけるたびに、団子虫が這い出てくる。
「可哀想になぁ、まだ小さいのに……」
春子は、猫を運んできた布を丁寧にたたんで、スカートのポケットへ納める。
「悪いことしたなぁ……」
蝉の鳴き声が、やむことなく続き、振り返ると、屋敷の屋根瓦が見えた。風呂場の煙突から黒い煙が出ている。母が火を焚いているのだろう。煙突の掃除は、手伝いの人間に頼んでいるが、風呂は家族が沸かす。まずは紙に火を付け、乾燥した杉を燃やして。火加減がうまくいかないと、また、春子の母は癇癪を起こすだろう。まるで、それで人生のすべてが台無しになったように。わめき散らす。
春子は少年に礼を言った。昼食を一緒に食べないかと提案したが、彼は首を振った。
「すんません。お誘い嬉しいんですが、畑の様子見なかんで……、もう行きます」
彼は何度も頭を下げて、そう言った。
「ありがとう、涼くん」
山を下りていく少年の曲がった背中を見つめながら、春子は一人溜息を付く。
足元には、もう穴はない。