七
ある日、子猫が死んだ。
子猫を貰い受けてから、一週間ほど経っていた。
午前十時。いつものように春子が桜子の部屋へ朝食を持っていくと、子猫が白目を剥いて畳の上に転がっていた。近づいてよく見ると、口から泡を吹いている。畳の上に、手足をだらんと伸ばしたまま。まるで、くたびれた黒い布のように。餌の器には、肌色の吐瀉物が溢れていた。
「死んだわ」
部屋の中央にある布団の膨らみが言った。春子は姉を避けて、運んできた朝食を書き物机の上に置いた。障子の淵は逆光で黒くなっている。それらは、無数に並ぶ十字の影だ。
部屋の中に存在するありとあらゆる隙間は閉められて、昼にほど近いにも関わらず薄暗い。
いつだって、この部屋は光に見放されている。
檻のように薄暗く、池のように湿っている。
「また新しいのをもらわないと」
布団の膨らみが、吐き捨てるように呟く。
春子は、しばらく押し黙り、体を固めた。膝に置いた両手を握りしめる。
「どうして死んでしまったんでしょう」
ようやく出した声は震えていた。
「どうして?」
桜子が静かに答える。
「ご飯を食べていたら突然暴れだして、どうしましょうと考えていたら、動かなくなっちゃったの」
桜子の顔は、どこか晴れやかだ。
布団の側へ寄って、春子はできるだけ表情を変えないようにして尋ねる。
「子猫に何をあげたのですか?」
耳元でブンと不愉快な音がしたので、手を振ると、蠅が一匹天井へ昇っていくところだった。旋回を続けて、何度も電灯にぶつかって、ぶつかるたびに高度を落とし、また、天井へ昇ろうとしていた。
「鯉よ」
桜子がにっこりと笑って答える。
「鯉?」春子は首を傾げる。「池の?」
「そう」
「鯉を子猫にあげたの?」
「そうよ」
春子は、桜子の食事を運ぶ時に、必ず、子猫に水とソーセージを与えていた。子猫は小さな口をいっぱいに広げてよく食べていた。抱いてみると、ミーミーと声をあげて逃げようとした。指を口の前に出すと、赤い舌で舐めた。
桜子は、そんな春子の様子を遠目に、あまり猫に触れようとはしなかった。
「どうやって?」
桜子は歩くことさえできないのだ。鯉を捕まえるなんてできるとは思えない。車椅子に乗ったまま、釣りでもしたのだろうか。馬鹿馬鹿しい。どう考えても、誰かに頼んだはずだ。そもそも、鯉を食べさせたというのが、桜子の嘘かもしれない。
布団の膨らみがもぞもぞと動く。
「姉さん」
春子は布団の膨らみに手を置いた。それはそれは生暖かかった。
「人に頼んだの」
「家の者ですか?」
「違うわ」
春子はとても嫌な予感がした。
「もしかして、筑紫さんですか?」
桜子は、「違うわ」と言った。
良かった、と何故か彼女は思った。
安心したというのが、一番近い。
その時、春子の頭に一人の少年が浮かんだ。
いつも兄の後ろに隠れているあの小さな少年。
「ねえ、春子」
静かに、とても静かに、姉が妹へ尋ねる。
「どうしたらいいと思う?」
それは、言葉だけの意味を持たない。