六
「鬼が出る」
それは、古くから地方に根付いた小噺で、酒飲みの鬼が村の子供をさらって食べる、というありふれた話だった。子供たちは、親から、「畑の軒に鬼が出る」と教えられ、暗がりへ近づくことを禁じられていた。出処は分からないが、熊や猪などの動物に、自分の子どもが襲われることを危惧した親たちの作り話だと春子は考えていたが、子どもの頃は、彼女も鬼の存在が怖かった。
春子は、鬼の話を曾祖母から聞いた。
「婆ちゃんは鬼を見たことがあるの」
春子は、曾祖母のベッドの縁で両手に顎を載せながら言った。
「ある」
曾祖母は喉に痰が絡まったようなかすれ声で、口の端に泡を吹かせて答える。話しかけることを申し訳ないと感じるほど、切迫感があった。稼働式のベッドの上で小さな体を横たえ、顔中の肌が引き攣って、目が左右とも眼窩に陥没していた。眉毛も髪もほとんど残っておらず、体は冬の枝木のように細かった。彼女は立ち上がることができない。自由に歩くことも、自分の体を寝返させることもできない。春子が毎日当たり前のように行っているほとんどすべてのことが、できない。桜子と同じ種類の病気だった。
「鬼は、やっぱり角が生えとんの?」
「ああ」と曽祖母はため息のような音を出す。「それがどうした」
まるで春子の言葉をひねり潰すような力。春子は何か、おかしなことを言ったかと後悔する。
「角が生えとるか、生えとらんかが」そこで、祖母は急に咳き込み、痛みに震えているようだった。「大事か」
「角生えとらんかったら、鬼じゃないよ」
春子は、身を縮めて控えめに答える。なるべく、まっとうなことを言おうと努めて。
すると、曽祖母は、突然、爆発するように笑い出した。
薄暗い室内には、曾祖母の体を生き長らえさせる機械の音と、雨の音だけが占めていた。窓から桃の木が見える。あれが、桃の木だと教えてくれたのも曾祖母だ。今は、枝には何も成っておらず、涸れていた。
「春子は、鬼が何かわからんか」
「知っとるよ」
春子は得意気に言う。
「頭に角が生えて、皮膚が赤いか青いかで、棍棒を持って人間を襲ってくる奴でしょう」
絵本で見た鬼の姿を思い出しながら言う。鬼は怖い顔で人間に向かって棍棒を振り回してくる。三匹の動物を仲間にした桃太郎が鬼を退治するのだ。でも、春子はこの話があまり好きではなく、というのも、桃太郎が鬼ヶ島へ行ったのは財宝を手に入れるのが目的で、ずいぶん勝手な話だと彼女は憤りを感じていた。鬼の持ち物を、桃太郎は暴力で手に入れる。
「それは、子どもらにも分かりやすいように、そういう形をしとんねん」
曾祖母は、一度大きな咳払いをすると、一層苦しそうな声を出した。枕元に水差しがあったので、春子はそれを彼女の口につける。水が流れ込み、曾祖母の喉が動く。口の端から水が垂れたのでタオルで拭いた。室温が低く、寒くて仕方がない。部屋の暗がりで、ストーブが音を立てている。
「鬼の中には、わしらとおんなじ格好しとるのがおるぞ」
「私たちと同じだったら何も怖くないじゃない」
春子は笑ってしまった。母親が棍棒を持っている姿を想像したからだ。
「春子は、きれいな顔しとるな」
突然、春子は背筋が寒くなるような感覚を持った。
「きれいやなぁ」
彼女が何を言っているのかよく分からなかった。
「鬼が怖いか?」
曾祖母は、桜子と同じように物心つく頃には症状が現れ、学校は疎か、外へもほとんど行かせてもらえなかったという。症状が深刻になると、二つ山を越えた先の病院へ入院させられ、十年ほど過ごした。病院での生活を彼女はあまり話したがらない。
「鬼が怖いか?」
「怖いよ」
曽祖母に気圧されて、春子は渋々答える。
曾祖母はたぶん、にっこりと笑った。推測することしかできない。彼女は、布団から片方の腕をおごそかに引き出すと、胸に手を当てた。そこには指がひとつもなかった。春子の両手に、可愛らしく生えたものが、そこにはなかった。春子はなぜかそのとき、曽祖母も、自分と同じ歳を経たのだという、ごく当たり前のことを思い出す。
「角が怖いか? 鬼が怖いか? 殺されるのがそんなに怖いか?」
曾祖母はもうそれ以上なにも言わなかった。眉毛も目もない彼女の表情から、感情を読み取るのは難しい。春子は、怖い、と答えることが、怖くてたまらなかった。
「ねえ、婆ちゃん」
春子がそれからどんなに声をかけても、曽祖母はなにも答えなかった。
外では雨が降り続き、遠くで誰かの泣き声が聞こえる。
角が怖いか、鬼が怖いか、殺されるのがそんなに怖いか。
春子は、今でもよく曽祖母の言葉を枕元で唱える。