五
山の夜は早い。日が落ちれば明かりはなくなり、やがて完全な夜になる。震えるほど肌寒く、羽織りがないと耐え難い。春子は、昼間に毛布を仕舞ったことを後悔した。
筑紫たちが帰り、散々、桜子の筑紫への嫌味を聞き流しながら、春子は皿を片付けると、真っ暗な廊下を一人歩いた。部屋の明かりはことごとく消され、しんと静まり返っている。昼頃は、これっぽっちも雲が見られなかったが、夕方になると、急に激しい雨が降った。地面や瓦を叩きつける雨粒の音が地鳴りし、窓の外に生き物の気配は感じられない。
もうすぐ、春子の嫌いな場所に出る。昼間も通った、池のある坪庭だ。祖母の部屋を通り過ぎると、目の前にある引き戸を開けた。冷たい風が顔に当たる。春子は羽織りに袖を通した。
縦横に障子が並び、右手に池がある。その向こうには、鬱蒼と茂る森だ。木々の隙間に暗黒が沈殿し、重苦しい沈黙を湛えている。昼間、あそこから蝉の声が聞こえてきたのが嘘のようだ。
夜の雨は姿が見えず、音だけ聞こえて不気味だ。
春子は、池の方へ目をやらないようにして渡り廊下を歩く。しかし、どうしても気になった。嫌なものほど、見たくなってしまう。自分は、小さい頃から怖い話を聞きたがる子供だったと彼女は苦笑する。怖い、怖いと思いながら、聞かなければ気になって眠れない。すべてが見たい。
緑色の池は、まるで地面に開いた底なしの穴だった。あらゆるものを飲み込み、池の周りに巡らされた柵が、ひとつ残らず吸い込まれ、圧縮されて、木っ端微塵になるのを想像した。
鯉たちも眠っているのだろうか。
渡り廊下を進むと、板張りの継ぎ目から何かが出てくるような錯覚を覚えた。音が鳴るたびに、春子の心臓は高鳴る。
もう少しで、目的の厠にたどり着く。
その時、どこかで声がした。
間延びした高音だ。
山にこだまして。
人間の叫び声にも似た。
姿の見えぬ雨音に混じって。
えんえんと。
えんえんと。