三
蝉が鳴いている。日差しが強い。足元では蟻の行列が蟷螂の残骸を運んでいる。
九つになったばかりの春子は、岩の上に座って、川の流れを見つめていた。水は浅く、流れが早い。白波が綿菓子のように泡立っている。じっと覗くと、水の底に小石が見えた。手に取ると、赤茶けた色をしている。持ち帰ろうかと思ったが、母親に捨てろと言われるに違いない。彼女の母親は、一度腹を立てると、タガが外れたように怒鳴り散らす。家にそれを止められる人間もいないので、春子はいつも黙ってうつむいていた。
春子は小石を川に投げ入れた。豪豪と流れ行く川の流れに飲み込まれ、音もなく、小石は消え失せる。
浴衣の帯が腰を絞め付けて苦しい。春子は、いつも和装を着ていたが、これは母親の趣味だ。今日は、赤色の生地に桃の刺繍が入ったもので、帯は白と薄緑の合わせ柄だった。
座っているだけでも暑く、汗が頬を伝う。太陽は空の一番高いところにある。
「春子、そこに魚はいるの?」
振り返ると、桜子が車椅子に座ってこちらを見ていた。顔に包帯を巻いており、目と口以外の部分がほとんど隠れている。真っ白なワンピースを着ていて、頭には大きな麦わら帽子を被っていた。
「岩魚か虹鱒がいるでしょう」
桜子の隣に立つ少年が答えた。
「魚なんて嫌い」
「昨日食べていたじゃないですか」少年は快活に笑う。そして、「暑くありませんか」と尋ねた。
彼は半袖の制服を着ており、シャツの上からでも、健康的な体つきが窺える。野球部に所属しているらしく、頭は丸坊主だった。鼻筋が通り、髪は美しい黒色だ。視線がまっすぐで、子どもながら声は低く、落ち着いている。笑い声もよく通る。彼の立つ場所の少し先に、川原から道路へ上れる段差がある。雑草が茂り、白詰草がたくさん咲いていた。先程、桜子を運ぶときに、男たちの足が散々踏んだ。
「暑かったらどうかしてくれるの」桜子がいつもの調子で答える。
「水を持ってきますよ」少年はまた笑う。「また、魚でも取りましょうか」
少年の明るい言葉を聞いて、春子は顔を歪める。
春子たちの屋敷では、頻繁に、近所の人間を食卓へ招いていた。昨日も、自宅で取れた野菜を分けにきた少年を、祖母が捕まえて一緒に夕飯を食べた。白米と、味噌汁と、じゃが芋のサラダ。そして、焼き鮎があった。身が引き締まっており、大根を載せて醤油をかけると美味しかった。桜子は自室に引きこもって、食事の席には現れない。そのため、春子がいつも食事を運んだ。片付けは手伝いの人間がしてくれる。
「嫌だわ。見るのも嫌い。大嫌い。だって気持ち悪いもの」
桜子はぶるぶると首を振る。
「好き嫌いは良くないですよ」
少年が、検討違いなことを言う。
「魚を食べなくても死なないわ」
「それじゃあ、健康になれませんよ」
「健康になんてなりたくないわ!」
二人のやりとりを遠目に、春子は川の様子を眺めていた。水は透明に澄んでいる。小石はどれも角が取れて丸くなっており、表面の荒れた岩とは対照的だ。波の中で、時々、魚の眼が強く光った。
その時、春子の頭の上をふわりと何か飛んでいった。春子は鳥だろうと思ったが、水の上に着いた時、それが麦わら帽子だと気がついた。赤いリボンが巻いてある。
「春子!」
振り返ると、桜子が右手を掲げていた。包帯の巻かれた頭が、卵のようだ。
「帽子を取ってきて! 早くしないと、流されてしまうわよ!」
アハハと桜子の笑い声が山に反響した。
麦わら帽子は、波にさらわれ川下へ流されていく。春子は、帽子と桜子と、そして、困惑した少年を交互に見つめ、ためらった。こういうことは、これまでに何度もあった。時には、屋根の上に登らされ、時には、納屋に閉じ込められた。春子はなかば諦めている。そうしてその時もやはり、着物の裾をまくり、端を結んで、恐る恐る、爪先を水面に浸けた。川底に立つと、足先がちぎれるかと思うほど冷たかった。石の表面に藻が生えており、ナメクジの背のようにヌルヌルとしている。気を付けないと、すぐに転んでしまうだろう。
麦わら帽子はどんどん流されていく。手を伸ばしても届かない。
「危ない!」
少年の声が聞こえた。
冷たい水の中を春子は慎重に歩いていく。一歩ずつ、前へ前へ、石が足の裏に刺さって痛い。もう、膝まで水に浸かっていた。流れがきつく、気を抜くと、足を取られそうになる。
見上げると、麦わら帽子が岩に引っかかって、止まっている。
急がなければと思った。
そうして。
あ、と思った。
足を着いた場所が他よりも深く、ずぼりと埋まる。
目の前に大きな岩がある。
春子はそれを見た。