二
障子の隙間から、日に照らされた庭が見える。暗い座敷から覗くと、まるで全てのものに祝福されたように明るく、そのちょうど真ん中に一本、桃の木があった。桃の木の周りには花壇があり、撫子や紫陽花の花が植えられていた。木の下に老婆がいる。曲がった背を伸ばして、果実を取っている。側に脚立があったが使わないようだ。老婆の他に、人はいない。
「学校は今日でおしまいなの? 春子」
「はい」
春子が頷くと、桜子は潰れた目をさらに細めた。
「もう夏休みなのね……、ここにいると、季節なんてわからないわ」
「ええ」
春子は桃の載った皿を静かに膝の上に置く。
慎重に話さなければいけない。
麓の学校にいる時は、馬鹿のように暑い暑いと呟いているのに、ここにいると、半袖では寒い。夜になったら、もっと寒くなる。春子たちの住む屋敷は、麓から幾分離れた山中にあり、春子は毎日二時間かけて登校していた。一時間に一本、市営のバスが走るが、利用する乗客は少なかった。制服は今月に入ってから、夏服に変わった。彼女は腰まで届く長い黒髪を持っているが、今は三つに編んでいた。学校の規程でそうしている。しかし、三つ編みも今日までだ。明日からは、髪を束ねる必要がない。
「暑くなったら、また、川原へ出たいわ」
桜子は言った。
春子は、姉の方をしっかりと見ることができない。
毎年、夏になると姉妹は近場の川原へ足を運んだ。桜子は車椅子がなければ歩けない。そのため、川原へ降りる際は必ず男手を必要とした。春子の力では持ち上げられない。姉は、どこへ行くにも自分の足では歩けなかった。
「ええ。筑紫さんを誘って、釣りでもしましょう。きっと、鮎や石斑魚が取れるでしょう」
筑紫というのは、春子たちの隣の家に住む、村で数少ない子どもの一人だ。隣人といっても、家同士は離れている。物心付く前から彼らはお互いの家を行き来していた。筑紫は、今年で、大学四年生になる。昨年まで、就職活動のために麓の街へ下りていたそうだが、今年の春に帰ってきた。彼は成績が優秀だと、春子は自分の母親から嫌と言うほど聞いていた。そして、いつかこの村を出て行く人間だと。
「魚は嫌い」
桜子が眉を顰めて言った。
「どうしてですか」
「気味の悪い顔をしているもの」
何のてらいも、翳りもない言葉だった。洋服の選り好みを伝える少女のような口調。彼女は、ただれた頬をひくつかせながら、不快感を示す。暗い部屋で、青紫色の皮膚がいっそう黒ずんで見える。春子はしばらく考えて、「でも、美味しいですよ」と答えた。
「もういいわ。ねえ、川遊びがしたいの。川面に飛び込んで、水をかけ合うのよ」
桜子はまるで夢見るように呟いた。
桜子の足は、指先が壊死している。今も厳重に包帯で巻かれていた。川に入るなど到底無理だと、他の誰より彼女が一番心得ているはずだ。にも関わらず、そんな無茶を言う。
「川面に飛び込むなんて、危ないです」
「春子はいじわるなのね」
そんなことを言う。
意地が悪いのはどちらか。
庭に目を向けると、いつの間にか桃の木の下には誰もいなかった。脚立と籠だけが、そのまま置かれている。
「じゃあ、川の水に足を浸けましょう。私も手伝います」
辺りには静けさが停滞し、耳を澄ますと圧倒される。
「つまらないわ」
「そうですか」
春子はうんと考え込んだ。車椅子に乗った姉も楽しめる遊びが思いつかない。虫でも探してこようか。筑紫ならなんと言うだろう。よい知恵を貸してくれそうだ。
障子を白く照らす日差しは、容赦がない。
夏が近づいている。