十七
「なんでお前がここを知っているんだ!」
「春子、そんな言葉遣いをしないで」
桜子は虫のように弱々しい動きで、頬を押さえながら、ゆっくりと体を持ち上げた。それでも、顔は相変わらず微笑んでいる。
「筑紫に頼んで貴方の帰りを追ってもらったのよ。最近、とても楽しそうだったから。何かいいことがあるのかしらって、気になったの……。御免なさいね。涼のこともあるから……、もしかしたら、春子が何か知っているのではないかと思ったの」
夕方になると、薄暗い森の中で、ヒグラシが鳴き始める。暑さも和らぎ、涼しい風が肌をなでた。
「そうしたら、困ったことになってしまって。もちろん、私をここまで運んで下さったのは筑紫よ。小屋の扉を壊したのも筑紫。でも、小屋の中へ入ったら、筑紫がおかしくなってしまったの。突然、叫びだして。『あの野郎』だなんて物騒なことを言うのよ。涼が死んでいたからかしら? あ、そう、涼が死んでいたわよ、春子。熱射病じゃないかしら。可哀想にね。でも、もともと弱い子だったから……、仕方がないわね。なんの話だったかしら。そう、築紫がね、おかしくなったのは涼のせい。まったく、今まであんなにニコニコと不気味なくらいよく笑っていたのに、とんだ豹変だわ。もう、あの男のことはよく分からない。勝手に橋から転げ落ちて死んでしまったんだから。ねえ、ちょっと、車椅子を戻すのを手伝って頂戴」
桜子は、動かない足を荷物のようにして、腕の力だけで春子に近づいてきた。
春子はそれを、靴を履いていない足で踏みつけた。姉の顔が地面に突っ伏す。ぐえという変な声が聞こえた。そのまま、春子は桜子の髪の毛を引っ張りあげて、引き攣った顔に張り手を打つ。
春子はそのまま一心に、桜子を殴り続けた。土の上で、桜子は布きれのように揺らいでいた。やがて、桜子は口から血を吐いた。肌は真っ赤に腫れていた。
「おかしいのはお前だ!」
春子はようやくその言葉を吐き捨てた。
「なにが涼が死んでいたわよだ! お前にとって築紫や涼はなんだったんだ! 猫や兎と同じか? ふざけるな!」
頭に血が登って行く。痛みが波のように押し寄せる。姉は倒れたまま動かない。
「お前が不自由を生み出す! お前の腕が動物を殺す! お前の病が同情を募り、人の心を揺さぶる! お前の言葉が人を地獄に叩き落とす! お前の存在が人を不幸に貶める!」
彼女は懸命な暴力の際にそのようなことを叫んでいた。頭は熱を帯びて、激しい痛みを伴った。眉根をいくら寄せても足らない。しかし、そんなものは、目の前の姉に比べれば、微々たる痛みだった。痛みと呼ぶのもおこがましいほど、小さなものだった。
「死ね! 死んでしまえ!」
春子は、自分の姉に唾を吐きかけると、そう言った。
判決を下した。
泉の水は枯れた。
アハハ、とかすれた笑い声がした。息を吸う音と、咳払いが同時に聞こえる。
春子はその声を聞くと、また漫然とした怒りを煮えたぎらせ、笑い声の方へ拳を叩きつけた。思い切り、蹴り飛ばす。張り倒す。殴り続ける。しかし、笑い声は止まらなかった。
「アハハハハ」
「黙れ!」
春子は怒鳴る。
「アハハハハ」
「黙れ! 五月蠅い! 五月蠅いッ! 五月蠅いッ!」
笑い声は止まらない。まるで、大衆劇場の観客のようだ。おかしな動きをする役者を見て、観客は拍手喝采。大笑いである。
「アハハハハ! 馬鹿みたい……、やっぱり、春子はしょせん春子なのね」
桜子はもう、立ち上がる気力もないようで、地面に顔を付けたまま壊れた玩具のように笑い続けた。顔が青黒く腫れて、髪の毛が鳥の巣のように乱れている。
「ああ、おかしい。こんなおかしいことがあるかしら!」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ!」
春子もまた、姉と同じように気力がなくなり、ぐったりと地面に座り込んだ。割れそうな頭を抱える。
「可哀想な子。混乱しているのね。羨ましいのと、馬鹿にするのとが、ごちゃ混ぜになって……。怒っているのか、悲しいのか、楽しいのか、わけが分からないでしょう? 怒っているけれど楽しい。悲しいけれど腹が立つ。楽しいのに泣けてくる……」
桜子は、やはりいつものように微笑んでいた。頬が水ぶくれのようになっても、目が潰れてしまっても、口だけはずっと三日月のままだ。
春子は、ただ膝を抱えて震えていた。段々と、自分がとんでもないことをしたような気がしてくる。とても怖いことをしたような。なんだか、色々なことを忘れているようだ。子猫は死んでしまったし、兎も死んでしまったし、そうだ、筑紫も死んでしまった。さっき、桜子が涼も死んだと言っていた。熱中症か何かで倒れたのだろうか。舌を噛んでしまったのだろうか。可哀想に。その可哀想なことをしたのは他ならぬ自分なのに、まるで他人事のように春子は心から可哀想だと思った。
「乱暴に自分の感情を明らかにしようとするから、混乱するのよ。殴っても、怒っていることにはならないわ。泣いても、悲しいことにはならないわ。笑っていたって、楽しいわけではないのよ」
桜子の声は、川の水のように澄んでいた。
「言ったでしょう、春子」姉が笑う。「鬼なんていないの」
春子は、すっと力が抜けるような気がした。
「空っぽの理屈の周りを、踊っているだけ」
目を閉じて、姉の声を聞く。
「貴方は良い子だわ、春子」
春子は桜子の声に耳を澄ませていた。坊主のように、祈祷師のように、一心に自分の耳に届く音を聞こうとしていた。一体、何を言っているのだろうと。理解しようと務めた。
曾祖母の葬式で、春子は泣かなかった。
曾祖母の顔は白い布で覆われていた。
汚いものを隠すみたいに。
きっと、母親の仕業だと春子は思ったけれど、誰が死んでもそうすることを大きくなってから知った。
「貴方は良い子よ、春子」
姉の声はまるで呪文のようだ。
怖くない、怖くないと、鎌を持った手でおびき寄せる。
桜子が、手を伸ばしている。
子猫と兎を殺した手を伸ばしている。
春子は、いつの間にか、自分が泣いていることを認めた。今度はまた、どうして泣いているのだろうか。悲しくはなかった。嬉しくもなかった。怒っているのでもない。心は酷く安心している。目の前の女が優しく微笑んでいるのだから。
春子は、ひざまずいて姉の手の下へ潜り込んだ。
「さあ、仕事をしましょう。春子、手伝って頂戴」
春子はこくりと頷いた。
桜子は、小屋からスコップを持ってくるように指示をする。
一面の空は暗くなり、山の先で太陽が沈んでいくところだった。髪が風になびいて、口の中に入ってくる。ゴロゴロと瓦礫を転がすような音がして、見上げると黒と赤をない交ぜにした、気味の悪い雲が浮いていた。雷だ。すぐに雨が降るだろう。
春子は、もし鬼が現れるならこんな夕暮れだろうと思った。
「今度は二人ぶんの穴だから、大変よ」
桜子がにっこりと笑った。
山の中へ姉妹の笑い声がこだまする。
生まれた瞬間から他人はおろか、自分の痛みさえ感じないため、痛みを理解できない姉と、痛みに敏感な妹の話でした。桜子に、悪意は一切ありません。




