十六
気がつくと、春子はあの橋へ来ていた。
紫蘇の葉をよけて、雑草の中へ分け入っていく。轟々と鳴り響く川の流れが、蝉の声と混じって耳に届く。葉の鋭い雑草が、すりむけた膝に当たってとても痛かった。川で、血を洗い流そうと思った。夕焼けが山の狭間で赤い光を放っている。
橋を渡っていく途中、昨日まで何もなかった場所に穴が開いていた。木が腐って抜けそうになっていた箇所だ。ふと、川を覗くと、大きな影が見えた。浅瀬の岩に引っかかって流れを遮っている。人の背中だ。女のものではない。大人の男の、がっしりとした背中だった。両手が川の流れに従って、海月みたいに揺れている。髪の毛は海草のようだ。海を見たことなどないのにそう思う。白いシャツが乱れていた。
春子は、急いで橋を渡り切り、川辺を下りていった。奇妙な影は近づくにつれて、見慣れたものと形を合わせていった。浅黒い肌と、太い腕。
それは、筑紫だった。
「春子!」
春子は、ぼんやりとした頭で自分の名前が呼ばれるのを聞く。混乱した頭と、暑さとで、今にも倒れそうだ。両手で顔を覆って、目を閉じる。自分の手は、川と同じくらい冷たい。血が通っていないみたい。顔だけに汗をかいている。
「春子!」
小鳥のような、歌うように可愛らしく、憎たらしい声。人の名前を何度も何度も、こちらの都合などお構いなく、呼びつける女の声。
「春子! こっちへ」
振り返らなくても、誰がそこにいるのか分かった。十五年以上も聞き続けているのだ。ちょうど、自分が九歳になる夏、川原で麦わら帽子を取りに行かせた時と同じ声だった。
見上げると、案の定、桜子がこちらを見ていた。今は、顔を隠す包帯はなかった。肌が引き攣り、目が半分つぶれたようになって、薄い髪が風になびいて顔にかかっている。服装は、桃色の浴衣だった。
「早く! こっちへ」
春子は、膝の痛みを意識しながら、ゆっくりと立ち上がった。這い蹲るように、斜面を登っていく。足を地面に引っかけて、両手で草を握って。きっと、髪はぐちゃぐちゃになっているだろう。せっかく綺麗な三つ編みにしたのに。
ようやく登りきると、息が切れていた。目の前に、桜子がいる。車椅子に座ってこちらを見ている。何もかも知ったような顔で。
青い小屋の前で、姉妹は生まれて初めて対峙した。今まで彼女たちは隣合って座ることはあっても、顔を付き合わせて話すことはなかった。
「筑紫さんが……、筑紫さんが……」
春子は両手を握り締めて、桜子の目を見つめる。頭が痛くて、足がぐらついた。
「春子、怪我をしているじゃない。ちょっと、来なさい」
桜子はおいでと言うように、春子を手招いた。レースのついたハンカチを持っている。春子が近づくと、それで膝の血を拭ってくれた。
「これでいいわ」
にっこりと、微笑む。
その時、春子の泉が噴出した。
熱が体中を巡るのを感じた。
春子は握り締めていた右手を、その顔へ、姉の顔へ、力の限り叩きつけた。凄まじい勢いで、桜子は車椅子ごと地面に倒れ落ちる。ふわりと土ぼこりが舞った。その時、彼女は生まれて初めて人を殴ったわけだが、その衝撃の強さ、また、拳の痛みに驚いた。
「笑うな!」
春子は叫ぶ。きちがいのように語尾が裏返ってしまった。きっと、桜子は小屋の中も見ているのだろう。あの、檻の中も。鍵はしてあるはずだから、扉を壊して中へ入ったのかもしれない。涼を逃がしたのだろうか。きっとそうだろう。そうだろうか。
もう、どうでも良かった。




