十五
夕方になり、小屋に鍵をかけて屋敷へ戻ると、春子は真っ先に桜子の部屋へ向かった。
土間で、母親に「帰りが遅い」と言われたが、聞く耳を持たずに無視をした。より一層大きな怒鳴り声が聞こえたが、春子は気にもしなかった。
醜いものを嫌い、毎日、身綺麗にしている母親。裕福な商家から、こんな山奥へ嫁がされ、娘と僅かな住民以外の人目に晒されることなく、単調な作業を繰り返すだけの母親。若い頃は大層美しい娘だったらしい。春子は母親の膝の上で、何度も何度も、学生だった頃の写真を見せられた。
「姉さん!」
祖母の部屋を通り過ぎ、暗い池の見える渡りを走りぬけ、桜子の部屋の前にたどり着いた春子は、入室の許可も待たずに襖を開けた。
入室してまず気がついたのは臭いだ。何かが、腐るような強烈な臭い。春子は胃から上ってくる酸っぱい液体を、なんとか飲み込んだ。吐き気がする。
部屋の中には誰もいなかった。
布団は、丁寧にたたまれて、部屋の隅に積まれている。日光の当たった障子は硬く閉ざされ、強烈な腐敗臭が逃げ場をなくしている。日の光から見放された場所だ。ふと、足下を見ると、兎が死んでいた。夏の始まりに飼った子猫と同じように、白目を剥いて、ただの薄茶色の塊になっていた。
また動物を埋めなければならないと、春子は思った。
「姉さん、どこにいるの! 姉さん!」
書き物机の下も、押入れの中も、手当たり次第に探した。しかし、姉の姿はどこにもない。障子が外れるほど強い力で開け、靴下のまま庭に飛び出す。暴力的な赤い光が降り注ぎ、春子は目を細める。彼女は汗をかいていた。
今まで、姉が移動する時は常に春子が側にいた。春子の目の届かないところで、姉が部屋から出ることはない。厠へ行く際も、春子の助けを必要とした。
庭には、花が咲き、木々が葉を茂らせ、そうしてあの桃の木があった。
春子は桃の木に近付くと、人間の目のような樹皮に触れる。太い幹から細い枝が伸びて、桃の葉はすべらかで細長い形をしていた。葉の密集が日光を遮って少しだけ涼しかった。
春子は、服が汚れるのも構わず、木の元に座って息を吐いた。気持ちが良くて、眠ってしまいそうだ。そうだ、姉は足が悪いのだから、一人でどこかへ行くことなどできない。もし、外へ出たとしても、必ず誰かと一緒のはずだから、大丈夫だろう。
誰かと一緒?
春子は眉を顰めた。
不信感は減数分裂する卵のように数を増して膨れ上がり、やがて、彼女を立ち上がらせるに至った。
桜子は、きっと筑紫と一緒にいるに違いない。
それは、春子の中で確信めいたことだった。理由など必要がない。その予想が、正しいか、間違っているかなど、もはや彼女には関係がなかった。桜子が自分の知らない間にいなくなった。その事実だけが、暗闇の中で化物のように口を開けている。
「ああ」
春子は知らない間に涙を流していた。ボロボロととめどなく溢れてくる。ただ、桜子と筑紫が一緒にいると思うと泣けてきた。以前、兎を持ってきた時の、楽しそうな笑い声を思い出すと体が震える。
優しくて、人間に優しすぎるために、罪のない動物を残酷な運命に叩き落とした筑紫。子供の頃からいつだって彼は、春子と桜子たちのことを気にかけて、晴れやかな笑顔で障子を開けて顔を出した。子猫も、兎も、桜子を喜ばせるという理由のためだけに持ってきたものだろう。筑紫から見た桜子は、自分の意思では部屋から出られない気の毒な少女だったに違いない。
「ああ、ああ」
彼女は走りだす。
靴下のまま、庭へ出たため足の裏が痛い。きっと、小石がいくつも刺さっているだろう。屋敷から道路へ降りる階段で、足がもつれて盛大に転んでしまった。膝をすりむいて血が落ちた。あまり痛みはなかった。血など構うものか。
春子の後ろ姿を発見した母親が、鬼のような顔で追ってきた。何かを叫んでいる。きっと、右手には棍棒を持っているだろう。靴を履いていないことと、家の手伝いをしないことと、男のように走っていることを、丁寧に怒っているに違いない。構うものか。
「付いてくるな!」
それは、生まれて初めて出した罵声だった。自分は、これほど大声を出せるのかと驚く。母親が怒鳴り返してきた。
「五月蝿い、黙れ! お前はずっとそこにいろ! お前はもう、そこで死ぬだけだ!」
春子は振り返って、母親よりももっと大きな声で叫んだ。自分の凶悪な言葉が山にこだまするのは面白かった。母親は、何がなんだか分からないという顔をして、きっと、混乱しているのだろう。
春子はもう、自分が泣いているのか怒っているのかそれとも笑っているのか分からなかった。全ての感情がごちゃ混ぜになって、頭がぼうっとする。自分は頭がおかしいのだろうか。きっと、そうだろう。だって、涼をあんなところに閉じ込めているのだから。
でも、自分だけが頭がおかしいのだろうか。
動物をあんなところに閉じ込めていた涼は?
動物をいとも簡単に殺してしまう桜子は?
その桜子に動物を渡す筑紫は?




