十二
夏が終わりに近づく八月末。
蝉は静かになってきた。
春子は、学校の宿題を片付けているところで、ある程度計画的に実行してきたのでそれほど残ってはいないが、数学には苦戦していた。彼女は、国語や社会が得意で、図画なども好きだった。逆に、姉の桜子は、数学が大の得意で、春子が思い悩む問題にこともなげに解を出してみせる。その代わり、解が定まらない国語は気に食わないようだった。
そんな時だ。
涼がいなくなった。
春子はいつもと同じように、桜子の部屋で勉強を教わっていた。午後三時頃、障子が乱暴に開けられ、桜子が怒りだす前に、筑紫の青ざめた顔があった。
「こちらへ、涼が伺っていませんか」
目の下の深い隈が、筑紫がろくに眠っていないことを示していた。日頃は、念入りにアイロンのかけられたシャツを着ているが、今日は汗に濡れて皺の寄った服をそのまま着ていた。ぜえぜえと、荒い息使いをしている。血色の良い顔は青ざめていた。
「来ていません」
「そうですか……」築紫は苦しそうに下を向く。「実は、昨日の夕方から家に帰っていないんです」
「どこかへ遊びにいっているのではありませんか」
春子は首を傾げた。
「街へ降りているとか」
「そんなことはありません。あいつは、俺なんかよりしっかりしていて、外出する時は必ず事付をしていくんです」
筑紫は右手で頭をかき回しながら、喚くように言った。
彼の話によると、涼は昨日の夕方に農具を持って出かけていった。涼の姿を最後に見たのは祖父だと言う。毎日のことなので、特に気にしなかったが、少年は夜になっても帰らなかった。心配して畑を見に行ったところ、鍬を入れた様子はあるものの、涼の姿はなかった。おかしいと思い、涼と同じクラスの子供たちに電話をかけたが、芳しい返事はなかったそうだ。街へ下りたとしても、頼りになる人間がいるとは思えない。涼もまた、この山の中でずっと暮らしてきたのだ。知り合いなどいないだろう。
「山へ入ったのかもしれない」
「どうして」
「分かりません、でも……」
筑紫は眉を寄せて目をぐっと閉じた。目を開くと、桜子の方を見た。桜子は、その視線をすっかり全て受け入れるように、寛容に首を傾げた。小鳥のように可愛らしい動きだった。何かしら、と言う。
「もし山へ入ったとしたら、きっとそれは……」
そのあとに続く言葉は、恐らく春子の考えと同じものだった。
山へ入ったとしたら、それは桜子のためだ。
動物を捕りに行った。
それは、春子の中で、ほとんど確信に近いものだった。
「でも、まだ山へ入ったとは決まっていないのでしょう?」
桜子は口を微笑みの形にして言う。穏やかな口調だった。何かを思いついた時、彼女はそういう顔をした。また、それは、春子にとってあまり良くないことが起こる予兆でもあった。
「そうだわ、春子! 筑紫さんと一緒に涼を探しに行ったらどうかしら?」
春子は桜子の顔を見つめ、畳の上を渡り、視線を彷徨わせて座敷を見回すと、最後に筑紫の顔に目をやった。
ああ、また姉さんが笑っている。
楽しそう。
まるで夢の中にいるよう。
その時、春子の頭に、あの青い小屋が浮かんだ。
あの青い小屋の存在は、他の人には、特に、彼の兄には教えないというのが、約束だった。
「私は……」
「駄目よ春子。そんな言い訳は通用しないわ」
「まだ何も言っていないでしょう」
春子は悲鳴のような声を出す。
「貴方の考えることくらい、分かるわ」
春子は、自分の中で懇々と沸き続ける水の音を聞いた。
「早く涼を探しに行きなさい」
桜子が自分を見ている。筑紫は縁側で頭を抱えている。
春子は世界がぐらつくような感じがした。
「早く行きなさい」




