十
鬼はどこからやってくるのだろうと春子は思った。
六歳のときだ。
先日、曾祖母から聞いた話がまだ頭に残っていた。
「鬼が怖いか?」という言葉。母や、父にも訊いてみようか。きっと、母は馬鹿らしいと切り捨てるだろう。鬼などいない、と、悩みの存在自体を否定する。それに、曾祖母の部屋へ行ったことを知られれば、烈火のごとく叱られるので黙っていることにした。彼女は、曾祖母をとても嫌っている。同じ食器を使うのも嫌って、別々に洗っているほどだ。
桜子に訊いてみようと思った。
桜子は、自分よりもずっと多くの本を読むし、頭も良い。きっと、鬼のことについて、思いもよらないことを教えてくれるに違いない。
夕方が過ぎ、小学校から帰ると、春子は鞄を床に放り投げ、靴を揃えることも忘れて桜子の部屋へ向かった。
「姉さんは鬼が怖い?」
春子がそう言うと、桜子は右手で口を覆いながらクスクスと笑いだした。自分がおかしなことを言ったかと思い、恥ずかしかった。
部屋は、ストーブの熱で生温かく、空気がこもって淀んでいた。桜子は、相変わらず白い包帯で顔の大部分を覆っており、まるで、負傷した兵士のようだった。影に沈んだ目は赤みをおびている。上品な着物から見える手首は、枝のように細い。彼女が顔を包帯で被っているのは、病気からの必要ではない。母からの言いつけだ。
「春子は、鬼なんて信じているの」
桜子の口元は包帯で覆われているため、くぐもって聞き取りにくかった。
「鬼なんていないわ」
閉めきった部屋の中は薄暗く、夕焼けで障子が赤くなっていた。
「でも、婆ちゃんは鬼を見たことがあるって……」
「作り話よ。あの人には、虚言の癖があるわ。まともに聞いてはいけないわ」
「虚言ってなに?」
「嘘吐きのことよ」
「婆ちゃんは嘘吐きなの?」
「そうよ。惚けているの」
「惚けると嘘吐きになるの?」
「嘘吐きは早く惚けるのよ」
ふうん、と言って春子は何気なく部屋の中を見回した。家具が少なく、本棚にはぶ厚い本がいくつも並んでいる。ほとんど父親が姉に買い与えたものだ。父親は、本に払う金に糸目をつけない。そして、分け隔てなく娘たちを溺愛している。それは、母親の分を補おうとするようだった。
「鬼なんて、いやしないわ。もしいたら、私たちなんてみんな喰われているでしょう。いつもなにを食べているの。木の芽? 可愛いじゃない」
それもそうだ、と春子は思った。しかし、曾祖母の語る鬼はまるで人間のようだった。もしかして、鬼は人間を食べないのかもしれない。人間の子供をつまみにして、酒を飲むことなどしないのかもしれない。もしそうだとすると、鬼は人間となにが違うのだろう。何のために生きているのだろう。
「鬼なんて、いないんだ」
春子は突然寂しくなった。不思議だ。さっきまで怖くてたまらなかったのに。恐怖の対象がないことを喜ぶべきなのに。
「鬼のような人間がいると、早合点するのもよしなさい」
え、と春子は首を傾げる。
「なんでもないわ、ねえ、今日の宿題はできたの?」
桜子は黒目を春子の方へやると、鉛筆を握って書き物机の前へ、足を引きずりながら移動する。春子は鞄を玄関に置いてきてしまったことを思い出して、姉の許可を待って部屋を出た。
「鬼が怖いか?」
廊下を歩く時、曾祖母の言葉が頭の中をグルグルと回った。
怖くない。
怖くない。




