一
奥座敷の廊下を歩く時、春子はまるで棺桶の中を歩いているような気分になる。薄暗い廊下は静まり返り、冬でもないのに寒い。艶のある床が歩くたびにキュルキュルと鳴った。
彼女は両手で盆を持ち、そこには桃が二つ載っている。刃を通さなくても、今にも蜜がこぼれそうだ。
厠の手前で坪庭に出る。そこには小さな池があり、水は緑色に濁っていた。時々、鯉が水面に顔を出すが、二、三度、口を開けると、泡だけ残して水の底に消えた。一体、鯉は何を食べて生活しているのだろう。藻や、小さな生き物だろうか。それとも、誰かが餌をやっているのだろうか。春子には分からない。池の向こうの木々の隙間に日の光は入らず、木陰に何かいるような気がして春子はそら恐ろしい気持ちになった。昼間でさえ気味が悪いのだから、夜はもっと不気味だ。そのため春子は、なるべくここを通りたくないと思っている。
仏間を迂回した先に、黒い戸がある。戸の中央に宛がわれた閂に手を添えて、そっと引き抜く。ギギ、と嫌な音がした。ここは、屋敷の最も奥深い場所で、左手には腰付障子が並び、右手に日に焼けた襖が並んでいる。廊下の先に、また黒い戸があるが、あれはただの物入れだ。
春子は襖の前に座すると、二本の腕を行儀良く揃えた。
「姉さん」
声をかけ、返事を待つ。この時、いつも緊張をする。
部屋の中で、何かの動く気配がした。
「どうぞ」
入室を許可され、春子はほっと息をつき、襖を開けた。
今日は、怒鳴られることはないようだ。
八畳の座敷は、ぶ厚い図鑑の詰まった本棚がひとつと、背の低い箪笥意外に家具はなく、空気が籠もっている。しかし、部屋の中で真っ先に目が行くのは、座敷の中央に敷かれた布団の膨らみだった。
「調子はどうですか」
春子は尋ねた。
「悪くはないわ」
膨らみが答える。
「それは良かった」
春子は膨らみの側に座って、盆を置いた。
桃を手に取る。表面はまるで子供の産毛のようで、人肌に朱を混ぜたような色をしている。春子は、桃の割れ目を人差し指で丁寧になぞった。
「桃を切りましょうか」
「ええ、お願い」
銀のナイフで桃を剥き始める。力を込めると、果実から透明な液が溢れ、甘い香りがたちこめた。皮を失った桃から黄身色の果肉が現れる。
「できました」
春子は手の平に桃を載せて言った。
桃の切れ端を、皿に移そうとした時、布団の膨らみがもぞもぞと動き、黒い影が春子の上へ覆い被さってきた。湿った暗い穴の中から、赤い舌が伸び、果肉はするりと吸い込まれる。
「うん。今年の桃は甘いのね、去年の桃は酸っぱかったわ」
布団からはみ出した影は、人の形をしていた。
その少女の頬は、黄みがかって溶岩のように爛れており、ところどころ青紫色に変色していた。右の瞼が腫れて眼球は見えない。潰れた鼻の下には大きさの違う二つの穴が開いており、また、首は包帯で幾重にも巻かれ、乱れた着物から微かに乳房が見えた。
彼女の名前は桜子という。