覚醒
ソラを乗せた小さなカプセルは、ある母親の母体に到着した。どうやら、休日の出産を避ける為、陣痛促進剤を使ったようだった。
(なぜ人間は、自然の摂理に逆らうのだろう)
ソラには、人間の考えが理解できなかったし、理解しようとする気にもならなかった。
やがて、意識が消えた・・・・・・
「おぎゃー、おぎゃー」
赤ん坊の声が分娩室に響き渡る。元気に生まれた赤ん坊は、万理絵と名づけられ、ウサのリーディング通り、うさぎのぬいぐるみが出産祝いに贈られた。
万理絵が幼稚園に入園した頃から、両親の夫婦喧嘩が激しくなった。父親の浮気が原因で、万理絵が小学校に入学した頃に両親は離婚する。母親が万理絵を引き取り、水商売をしながら育てていたが、やがて男と酒に溺れていくようになった。朝食は用意されることがなくなり、万理絵はいつも空腹のまま登校している。学校から帰ると母親はすでに出掛けていて、テーブルの上には夕飯用の五百円玉が乗っているだけだった。万理絵はいつもコンビニでお弁当を買って、一人で食べていた。
小学二年の冬。
いきなり若い男が、家に転がり込んできた。物置になっていた四畳半の部屋が万理絵に与えられ、外から鍵が掛けられた。万理絵は学校から帰るとすぐに部屋に閉じ込められ、トイレ以外部屋から出ることは許されない。しばらくすると、部屋の中におまるが用意された。これで学校から帰ったら最後、部屋から出ることは一切許されなくなった。
以前は母親が用意していた五百円玉も、今はもうない。
夕飯は、給食のパンを残して食べるようにした。万理絵は、常にお腹を空かせていた。空腹のあまり、時々、食べ物をねだる万理絵に男は暴力を振るう。その暴力は、次第にエスカレートしていくのだった
家に帰るのが苦痛だった万理絵は、毎日公園に立ち寄った。公園にいる真っ黒い野良猫と遊ぶのが、万理絵の唯一の幸せな時間だったのだ。日が暮れ、家に帰る時間になると万理絵はいつも泣いている。
「・・・・・・くろちゃん、帰りたくない。おうち、帰りたくないの――わたし、悪い子なんだって。悪いお父さんの血が流れているから、全部変えなきゃいけないんだって・・・・・・血をね、綺麗にするために、あの男の人は私を叩くんだって・・・・・・・」
万理絵の瞳から溢れる涙。黒猫が一生懸命、万理絵を励ますように顔を舐めている。
「ありがと」
万理絵は黒猫にお礼を言うと立ち上がり、右足を引きずりながら歩き始めた。
昨日、男に蹴られた足が痛むのだ。黒猫がそっと、右足に頬ずりをする。
「あれ?くろちゃん、また魔法使ったでしょう。痛いの治ったよ!ありがとう!」
万理絵は黒猫に手を振ると、急いで帰って行った。遅くなりすぎれば、男に殴られるからだ。
(おいおい、ソラ、早く覚醒してくれよ。なんだか、切なくなるぜ・・・・・・)
黒猫は毎日万理絵の家の側にいて、陰から万理絵を見守っていた。
古い小さな一軒家から毎晩聞こえる、罵声と子どもの泣き声。時折、通りを歩く人間が、その声に驚いて立ち止まり様子を覗う。その後、顔をしかめたまま無言で、その場を通り過ぎる。
――無視すんなよ!無関心な人間ほど、たちの悪いものはないんだぜ。なぁ、ウサ公。
――・・・・・・
――ちっ、まだ連絡取れねぇみたいだな・・・・・・
黒猫は、毎日母船に話しかけ、交信を試みていた。しかし、返事が返ってくる気配は一向にない。
万理絵が四年生になると、学校でのいじめはますますエスカレートしていた。
なかなかお風呂に入れてもらえず、洋服も洗濯してもらえない万理絵は教室では浮いた存在だった。
担任の先生もクラスの生徒と同じく、万理絵を教室から排除しようとしている。
友だちも頼れる大人もいない万理絵にとって、公園の黒猫だけが心の支えだった。公園のベンチに腰掛けて黒猫を膝に乗せ、頭を撫でながら黒猫と会話をする。万理絵の幸せな時間。
それは、突然奪われた。いつものようにベンチに座り、黒猫を膝に抱えていると、
「おい、まりええええええ――。どこだぁああああ!!!!」
公園中に男の怒鳴り声が響いた。酔っ払いのようにふらふらしながら、一人の若い男が歩いて来る。
焦点の定まらない目で、万理絵の姿を探している。公園の木々がざわめく。男は、ベンチに座る万理絵を見つけると、濁った目を煌かせ唇が薄く笑った。狂気と殺気を漂わせ、舌なめずりしながら万理絵に近づく。
一歩。
また一歩。
桜の花びらが舞い落ちる中で、恐怖のあまり硬直している万理絵。黒猫が毛を逆立てて、男を威嚇した。
「なんだぁ?このバカ猫がああああああ!邪魔すんじゃねええええええ――!!!」
男が、上着のポケットからハンティングナイフを取り出した。
右手にナイフを構え、黒猫を睨みつける。
「やめてぇ!くろちゃんを殺さないで!!!」
万理絵が男の前に立ちはだかった。
「俺に、命令すんじゃねぇえええええ――!!!」
男はそう叫ぶと、ナイフを突き刺した。小さな万理絵の胸に――万理絵がゆっくりと崩れ落ちてゆく。
倒れた万理絵の胸から、ナイフを引き抜く男。薄汚れたピンクのブラウスが、みるみる真っ赤な血で染まっていく。
返り血を浴びた男が、ニヤリと笑った。
――ソラアアアアアアアアア!!!
意識を失った万理絵を、大人たちが囲んでいる。
「早く救急車を呼べッ!」
「さっきの男は、どこ行った?」
騒然とする小さな公園。
倒れている少女の胸の傷を一生懸命舐める黒猫の姿。誰もが少女の体から黒猫を引き離さなければと思っているが、体が動かない。黒猫が、まるで傷ついた我が子を守る母親のように見えたのだ。
間もなく救急車が駆けつけ、万理絵は病院に搬送された。黒猫は、舞い散る桜の木の陰で搬送される万理絵を見届けている。その時、ある意識をキャッチした。
――ダル、私は大丈夫だ。
それは、確かにソラの声だった。
黒猫は、万理絵の家に向かいながら、母船との交信を試みた。
――ウサ公、頼む。応答してくれ!
やはり、返事はない。黒猫は焦っていた。
(おそらくソラが覚醒した。今、ダークサイドにソラのエネルギーをキャッチされるのは危険だ。急いでうさぎのぬいぐるみを、ソラの元に届けなければ・・・・・・)
万理絵の家に到着すると、たくさんの警官がやって来ていた。黒猫は、人間に姿が見えないように、体にシールド張って家に忍び込んだ。
家の中には警察関係者がいて、荒れた部屋の中を調べている。リビングのテレビの前に散らばっているゲームソフトの山。そのゲームソフトのマークを見て黒猫は、驚愕した。
(ダークサイドの紋章・・・・・・しかも、レベル5?これって、殺人養成ゲームじゃねぇか。一般階級に、ゲームとして蔓延している・・・・・・それで、あの男は万理絵を刺したのか?これじゃあ、一体どの位の人間がアルナキに洗脳されているのか検討もつかねぇ・・・・・・)
黒猫は、大きな不安を抱えながら、万理絵の大切なぬいぐるみを探した。
一人の刑事が、四畳半の部屋の扉を開けた。鼻の奥を刺激する異臭が、流れてくる。
荒れ放題の部屋に動揺する事も無く、ベテランの刑事が中に入って行く。
黒縁の眼鏡をかけた若い刑事は、あまりの異臭に、おえっ、おえっ、とえづきながら部屋の中を歩いていた。
「しょうがねぇな」
そう言うと、ベテランの刑事が錆付いた鍵を下げ、窓を開けた。 新鮮な空気が、部屋の中に流れ込む。数年来のホコリが舞い上がり、部屋が灰色に霞む。
「おい、縞。足元気ぃつけろや。おまるがあるぞ!」
「えぇ?うあっ、はい!」
ピシッとしていればいい男なのに、どこか頼りない人の良さそうな若い刑事は、汚物が溢れそうな足元のおまるを見て、ぎょっとしていた。
(信じられない・・・・・・)
経験の浅い刑事は、想像を超えた虐待の現場に胸糞悪さを感じていた。その様子を横目で見ながら、黒猫はボロボロの布団の側にあったうさぎのぬいぐるみを見つけると、急いで口にくわえた。
口にくわえた瞬間、ぬいぐるみにもシールドが張られ人間の目には映らない。開いた窓から外に飛び降りると、一目散に病院へと向かう。
万理絵は、桜坂総合病院の個室四〇四号室にいた。
出血のわりに傷口は浅く、命に別状はない。肌の表面にきり傷がついた程度の怪我に、医師は首を捻っている。刺された場所、出血量からすると、考えられない傷だったのだ。だが、軽い怪我のわりには意識が戻らない。昏々と眠り続ける万理絵のために、監視モニターのある部屋が用意されていた。
黒猫が万理絵の枕元にそっと近づき、ぬいぐるみを置く。
黒猫の口から離れた瞬間、シールドが解除されモニター画面に突然うさぎのぬいぐるみが現われた。
しかし、気が付くものはいない。何もない空間に、突然物体が具現化して現われるという現象を、多くの人間の脳は感知できないのだ。それは人間の脳が、かなり洗脳されている証拠でもある。
――ダル、ありがとう。
黒猫の頭に直接響いてくるソラの声。
万理絵の魂は、まだ眠ったままだ。
――ソラ、気分はどうだ?
――最悪だね。まだ、意識が朦朧としている。
――長い間、万理絵の意識下で眠っていたんだ。仕方ないさ。
――そうだな。長い間、嫌な夢を見ていた気がする。
――あぁ。ところでソラ、悪い知らせがある。実は、母船と連絡が取れない・・・・・・
――何だって?一体、いつからだ?
――地球に来てからずっとだ。
――地球に張り巡らされた、ダーク・グリッドのせいか?
――分からん。ただ、母船と連絡が取れない以上、この状況を二人で何とかするしかない。
――そうだな。このままだと、私は施設行きだな。
――万理絵が施設に入らずすむように、天使界にも協力要請しておいた。コスモ・シードが
目覚めて、キャッチしてくれればいいんだが・・・・・・
――前途多難だな・・・・・・母船とは連絡が取れず、人間の波動は想像以上に低下。怨み・妬み・いろんなマイナス想念で地球に張り巡らされたダーク・グリッド。参ったな―
――全くだ。だが、何とかなるさ。
――かもな。
――ところで、ソラ。ダークサイドの紋章って、覚えているか?
――手のひらの中に六芒星。その中心に光る眼。ダークサイド地球本部の紋章だ。
――やっぱり、間違いねぇ。あいつら、一般階級の中にも紛れ込んでやがる。ゲームにテレビ、静かに洗脳が始まっているぜ。
――あぁ。万理絵の意識下で感じていたさ。人間は、何も知らずにダークサイドの殺人人間養成ゲームを楽しんでいる。大人から子どもまでだ。テレビでは、富と名声を手に入れた人間たちの理想生活を、潜在意識に植えつける。サブリミナル洗脳だ。それにより生まれる競争社会。勉強・スポーツ・美と何でもいいから、他人より勝っていれば幸せになれると信じ込ませる。しかし、その競争に敗れた人間は、劣等感・無力感に支配され、やがて世の中の復讐に意識が向かう。さもなくば、絶望の果て自らの命を絶つ・・・・・・勝ち続けた人間が、自分より下の人間を支配するヒエラルキー社会。それが、奴らの理想社会だ。日本は今、ダークサイドのレシピ通りに進んでいる。そうだろ?
――その通りだ。俺たち二人じゃ、どうにもできねぇぞ。
――心配するな。我々よりも早く、ガイアが行動を起こし始めた。これから、世界規模で大きな自然災害が訪れるだろう。いろんな物を失って初めて、人間は本当に大切な物が何かという事に気が付く。それにより、自分の使命を思い出す者たちがいるだろう。おそらく、その中に・・・・・・コスモ・シード
――ソラ?
――・・・・・・。
万理絵が寝返りをうった。
(万理絵の意識が戻ってきたのか。思ったより、早いな)
万理絵の瞼がゆっくりと上がる。しばらく天井を見つめ、それからゆっくりと上体を起こす。
辺りを見渡して「ここは?」と呟いた。
ふいに扉が開いて、看護師さんが駆けつける。驚いて布団に潜り込む万理絵に、看護師が優しく声をかけた。
「驚かせて御免ね、万理絵ちゃん」
優しい言葉に、恐る恐る布団から顔を出す万理絵。
「気分はどう?どこか、痛いところある?」
万理絵は頭を左右に振った。
「そう。じゃあ、お腹空いてない?」
そう言われて、お腹が空いている自分に気が付いた。
看護師さんの顔を見て、小さく頷く。
「今、何か用意するから、待ってね」
そう言うと、看護師はパタパタと部屋から出て行った。部屋の外に誰かが立っていたが、万理絵は別な事で頭がいっぱいになっている。どうして、自分が病院にいるのか考えていたのだ。
(私、どうして病院にいるの?学校が終わって、いつものように公園でくろちゃんと遊んでい
た。それから・・・・・・?駄目・・・・・・思い出せない)
記憶に霧がかかったように、うまく思い出すことができない。忘却は、恐怖を忘れさせる為の人間最大の防御だ。
病室の外の廊下で、刑事の男たちが万理絵の様子を覗っている。
「どうやら、意識が戻ったみたいですね」
「あぁ。だが、もう夜中だ。詳しい事は、明日聞く事にしよう」
いかめしい顔の白髪まじりの刑事が、あくびをしながら答えている。
「先輩、万理絵ちゃんの父親に連絡したんですけど・・・・・・。俺には、関係ないって電話を切られてしまって・・・・・・」
若い刑事が目を細め、困ったように首をすくめた。
「そうか。やっかいな事に関わりたくないんだろう。父親だけじゃない。クラス担任だって、病院に駆けつけちゃいない。教え子の容態より、自分の身の保身だろうな・・・・・・」
年配の刑事は、鼻の頭をぼりぼり掻きながら低い声で話した。
「まぁ、俺も虐待された子を何人も見てきているが、大概こんなもんさ。誰も、関わりたくないのさ。おそらく、この子も施設行きだろうな。その方が、幸せかもな・・・・・・」
「――施設って、あんまりいいもんじゃないですよ。先輩」
目を伏せながら、若い刑事が呟いた。
「そうか・・・・・・縞も施設にいたんだったな」
「はい。今の親父とお袋に養子縁組してもらってなかったら、俺は刑事になってなかったですね」
「そうだったなぁ」
「あの子は、幸せになれるんでしょうか?」
「さあな。幸せになる権利は、みんな持って生まれて来ているはずなんだがな・・・・・・」
「俺、あの子には絶対幸せになってもらいたいです!」
(縞って刑事、ひょっとしてコスモ・シードか?)
二人のやり取りを聞いていた黒猫は、ふっとそんな風に感じた。
確証は、何もなかったが・・・・・・
再び、ソラの意識が目覚める。
ソラの意識は、万理絵の肉体から抜け出し、地球内部のガイアのもとに飛んだ。
ガイアの想いが唄となり、ソラの心に響いてきたのだ。
人間たちよ
忘れたのか?
海も
山も
大地も
私から生まれた
お前たちの同胞なのに
人間たちよ
忘れたのか?
空を飛ぶ鳥も
地を歩く獣も
海を泳ぐ魚も
私から生まれた
お前たちの同胞なのに
人間たちよ
何故、同胞を傷つけるのか?
海と山と大地が泣いている
鳥と獣と魚が泣いている
彼らの悲しみが伝わらぬか?
彼らの苦しみがわからぬか?
彼らの悲しみと苦しみは
嵐を呼び
火を噴き
やがて、大地を揺らすだろう
「偉大なるガイアよ。私の声が聞こえるか?」
唄がやんだ。
「おぉ、光の戦士か?」
「そうだ、久しぶりだな。いつからその唄を?」
「大地と海で、鋭い閃光があがり多くの同胞の命が奪われた。その時から唄い続けておる」
「核実験か・・・・・・大分、傷ついているようだな」
ソラはそう言うと、ガイアのハートにコズミック・エナジーを送り込んだ。
「どうだ?少しは楽になったか?」
「あぁ。しかし・・・・・・・」
「わかっている。最後の時は、そう遠くないっていうんだろ?」
「そうだ。闇が、私の魂を覆い始めた。人間の意識が変わらない限り、闇は増殖し続けるだろう。私は、自分に付いた闇を取り払うために、時々体を震わせなければならん。時には、地上も大きく揺れるだろうが、どうする事もできないのだ。でも、もし人間の意識が変わったなら、私の魂を覆った闇が消え、地球は第二の進化を遂げる」
「アセンションか・・・・・・」
「あぁ。しかし、今のままでは無理であろう。人間の意識が低すぎる。かつてのアトランティス末期の時代より酷い状態だ」
「確かに・・・・・・だが、まだ希望を捨てないでくれ。その為に、私は来たのだ」
「承知した。光の戦士よ。もう少しだけ、時間をやろう」
「ありがとう。ガイアよ」
ソラは意識を地上へと戻し、眠っている万理絵の意識下に潜り込む。
やがて、長かった夜が明けた。
それは、万理絵の運命を大きく変える夜明けだった。