第四十一話 大潮の足音
辺境領地改革、毎日5話ずつ更新予定です。
気になったら続きを追ってもらえると嬉しいです。
「来ます。北から——大潮です」
フリッツが荒い息のまま城門をくぐったのは、夕刻の鐘が鳴った直後だった。泥まみれの長靴、汗で張りついた前髪、それでも目だけは真っ直ぐにクルトを見ていた。
「規模は?」
「例年の……三倍か、四倍か。草原の南端まで魔物が溢れていました。先頭はもう霧の中に消えていて……数えられなかったです」
クルトは城壁の物見台への階段を黙って登り始めた。フリッツがその後に続く。北の草原が視界に広がった瞬間——低い振動が、足の裏から伝わってきた。
(地盤を通じた振動……距離は、まだ遠い。しかし速度が速い)
前世の記憶が蘇る。工事現場でバイブレーターを扱ったときの感覚。振動計の針が振れる周期。地盤の固さと振動の減衰率。
土煙が北の地平線の端に薄く見えた。まだ影はない。だが振動はある。
「……大潮だ。規模は例年の三倍以上。到着まで最短で十日」
「クルト殿」
背後からエルドリックの声がした。騎士団の隊長は階段を上りながら、すでに剣の柄に手を置いていた。
「王都に早馬を出すべきだ。増援を——」
「間に合いません」
クルトは振り返らずに言った。
「大潮の到着は十日以内。王都への伝令に三日、返答と出発に二日、到着まで最低一週間。計算が合わない」
「だからといって——」
「今あるもので守ります」
エルドリックが口をつぐんだ。クルトは北の草原を見続けた。風が南に流れている。
(今あるもので守る。それしかない)
──────
書斎に籠もったのは、その夜だった。
机の上に広げたのは、この一年でクルトが作り上げた「ノルトクロイツのインフラ全体図」だ。道路の配置、水路の流れ、外壕の位置、城壁の厚さと高さ、採石場からの輸送路。これだけのものを、この荒廃した地に積み上げてきた。
ランプの火が揺れた。クルトは羽根ペンを取り、新しい紙に向かった。
「多重防衛計画書」と上部に書く。
頭の中で、図が動く。魔物の群れは「水のように」低いところ、開いた道に流れる。それを利用する。
第一ライン。北方誘導路——既存の主要道路の一部を戦略的に閉鎖し、城壁南側の壕地帯へと群れを誘い込む導線を作る。光と匂いで誘導する。
第二ライン。外壕——第二章で整備した灌漑水路から分岐させて水を引き込んだ外壕。ウルフ系の突進を泥と水で止める。
第三ライン。城壁——第四章で修復した城壁を拠点に、弓と投石で迎撃。
第四ライン。内部退避経路——城壁が突破されたとき、住民を逃がす最後の道。
ペンを置いたのは、夜明け前だった。
(本当にこれで止まるのか)
そういう問いが来た。いつでも来る。前世でも、竣工前日の夜は必ずこうだった。設計した橋が本当に荷重に耐えるか、自分が想定した地盤が本当に正しいか——正確に設計すればするほど、「外れたときの恐怖」も大きくなる。
(でも、今回は机の上だけじゃない。俺が自分で作ったものが、ここにある)
クルトは羽根ペンを置き、計画書の端に小さくメモを書いた。「北方誘導路の崩壊形跡——あとで確認が必要」。先日の視察で気になった部分だ。自然崩壊にしては、形が変だった。
──────
翌朝、クルトは四人を書斎に集めた。
「話します」とだけ言って、計画書を机に広げる。
エルドリックが腕を組んで最前列に立ち、すぐに実務的な質問を投げかけた。
「誘導路に騎士の配置は要るのか」
「要りません。誘導は光と地形でやります。騎士は城壁の上の迎撃に集中してください」
「弓手は何人使える」
「正規の弓手は四人。避難民の元兵士が来ればそこに加えます」
エルドリックがうなずいた。懐疑ではなく、武人として計算し始めている目だった。
ヴィオラは計画書を受け取るなり、すでに算盤を弾いていた。
「石と木材は在庫があります。問題は人手です。誘導路の整備に三日、外壕への水の引き込みに一日、合計四日の作業が必要です。本番まで十日あれば……」
「六日の余裕があります」とクルトが引き取った。「予備日として持つ」
ランベルトが腕を組んだまま黙っていた。誰よりも長い沈黙のあと、一言だけ言った。
「……外壕の水制御、俺に任せろ」
フリッツが手を挙げた。いつものように、迷いなく。
「領主様、俺にもやらせてください!誘導路の整備、俺が先頭でやります!」
「頼みます」とクルトは答えた。「一番危険な持ち場です。でも一番大事な場所でもある」
フリッツが胸を張った。
エルドリックが最後に一言だけ言った。
「……作戦が失敗したら、どうする」
クルトは少し間を置いた。
「……失敗した部分を、その場で直します。設計に失敗はあっても、諦める理由にはならない」
エルドリックは「そうか」と言って席を立った。その背中から、最初のころの「戦えない坊ちゃん」を見る目線が薄れていることは、クルトには分からなかった。
全員が出ていったあと、クルトは一人で計画書に向き合った。
計画書の端の、あのメモに目が止まった。「北方誘導路の崩壊形跡——あとで確認が必要」。
(待て……あれは本当に自然崩壊だったか?)
崩れ方の形が、頭の中でまた蘇った。盛土の外側ではなく、内側が崩れていた。雨では、そういう崩れ方はしない。
クルトは立ち上がった。
大潮が来る前に、確かめなければならないことがある。
次話では、今回の判断が現場でどう返ってくるかが見えてきます。
続きもよろしくお願いします。




