第四十話 北面が立つ日
ここまで読んでくれてありがとうございます。
節目の回です。物語と領地の両方が一段進みます。
フォーゲルが去った朝は、よく晴れていた。
領主館の門前に馬車が止まり、補佐官が荷物を積んでいる。フォーゲル自身は外套を羽織ったまま、クルトと向き合って立っていた。
「財務省との協議が必要になりました。一時的に王都へ戻ります」
「お気をつけて」
それだけ言った。余計な言葉はいらない。
フォーゲルが馬車に乗り込む際に振り返った。口元に、何とも言えない表情が浮かんでいる。
「ヴァイス領主、あなたは面白い人だ。また会いましょう」
「ええ」
馬車が動き出した。蹄の音が門外に消えていく。ヴィオラが隣に立ったまま、その背を見送った。
「また来ますね」
「分かってる」とクルトは言った。「次が来るまでに、壁を立てておく」
その日の午後、北面の最終工区に差し掛かった。
残りは要石の設置だけだった。城壁の頂点部分に収まる、最後の一つ。ランベルトが自ら選び抜いた石で、昨日のうちに形を整えてある。
現場が静かになった。職人も作業員も、手を止めて見ている。フリッツが息を詰めている。
ランベルトが腰を落とし、石を両手で受け取った。
重い。百五十キロ近くある石を、足場の上で二人の助手と共に位置を合わせる。ランベルトが「もう少し北、そこ、そこだ」と声を低く絞って指示を出した。
石がゆっくりと下りていく。
かちり、という音がした。
「入った」
誰かが囁いた。
静寂の後、声が広がった。作業員の誰かが拍手した。それが伝わり、中庭で別の作業をしていた人間たちも気づいて集まってきた。フリッツが一番大きな声で歓声を上げた。
ランベルトが石から手を離し、立ち上がった。腰に手を当て、完成した北面の城壁を見上げた。
「……悪くない仕事だ」
最大限の褒め言葉だった。
エルドリックが城壁の上に登ったのは、日が傾いた頃だった。
足場を使って頂部まで上がり、外側を見渡す。夕暮れの中に霧の草原が広がっている。ここから見えるのは草原の手前の丘と、エーデル川の上流部分だけだが——それでもここから見えるということが、大事だ。
エルドリックは城壁の上をゆっくり歩いた。足元を確かめる。均一な厚み。ぐらつかない。見張り台の位置が、弓を放つ角度に計算されている。
しばらく外を向いたまま立っていた。
クルトが下から見上げていると、エルドリックが振り向かずに口を開いた。
「……これなら守れる」
「もし秋の大潮が来ても?」
クルトが確かめるように聞いた。
「……俺の騎士五人で、例年の二倍は持ちこたえられる。この壁があれば」
エルドリックが下りてきた。クルトの前に立ち、少し口を開いた。「……俺は、お前を——」と言いかけて止めた。目が何かを語っていたが、言葉にはしなかった。
クルトは何も問わなかった。
夕方、ヴィオラが完成した北面の計測と強度確認を終えて戻ってきた。
「設計通りです」
書類から目を上げてクルトを見た。
「ありがとう」
クルトが言った言葉に、ヴィオラが一瞬だけ目を伏せた。返す言葉を探して、見つからない、という顔をした。
クルトは工事現場に向かいながら、北面の城壁を外から見た。壁の外に出て、草原の方向を正面にして立つ。
前世でも、完成した橋を両岸から確認した。道路が完成したとき、全線を一人で歩いた。自分が設計したものが形になっているという事実を、自分の目で受け取るための時間だ。
城壁は、高かった。厚かった。基礎は地盤に食い込んでいる。石の合わせ目が均一だ。モルタルが乾いて固まっている。
(……悪くない)
ランベルトと同じ言葉が、胸の中に出てきた。
それから、次の問題が見えた。
「まだ足りない」
東面が未完成だ。西面も手前の補修だけで終わっている。霧の草原の方向に、完成していない側面がある。
館に戻ると、二枚の書状が届いていた。
一つは斥候からの追加報告。「魔物の集積が例年の三倍を超えた。秋の大潮は規模が過去最大になる可能性がある」という短い一文。エルドリックがそれを読んで「城壁が完成しても人手が足りない」と言った。
「分かってる」とクルトは言った。「次の問題は、人だ」
もう一枚は——ガルトナー伯爵からの手紙だった。
「ノルトクロイツの城壁が完成したと聞いた。我が領地も今年の秋は例年と違う動きを感じている。もし何か協力できることがあれば」
クルトは手紙を机に置いた。
「面白い時期に来た」
ヴィオラが「ガルトナー伯爵ですか」と確かめるように聞いた。
「ああ。去年はこちらから頭を下げなければ動かなかった人が、今度は自分から来た」
「情勢が変わっています」
「変えたのは北面の城壁だ」
クルトは机に地図を広げた。
北面城壁——完成。南面壁——既存のまま、部分補修のみ。東面——手つかず。西面——未着手。霧の草原からの距離と、斥候の最新報告。「今年の秋の大潮は、過去最大だ」。
残りの城壁を急ぐか、それとも壁以外の防衛ラインを先に整えるか。
定規を地図に当てながら、クルトは呟いた。
「どちらも、だ」
しかし戦いは、続いている。
ここで一区切りですが、次からまた状況が動きます。
続きも読んでもらえると嬉しいです。




