第三十八話 蜡に刻まれた紋章
辺境領地改革、毎日5話ずつ更新予定です。
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ヴィオラが執務室のドアを叩いたのは、夜になってからだった。
「少しよろしいですか」
クルトは工程表から目を上げた。ヴィオラの声の調子が、普段と違う。感情を押し込めようとしている、ということが声だけで分かった。
「入ってくれ」
ヴィオラが手に二枚の書類を持って入ってきた。どちらも裏面を向けている。机の前に立ち、静かに二枚を並べて置いた。
それぞれの右下に、封蜡の痕跡がある。
「フォーゲル管理官の補佐官が今日渡した書類——こちら」と右の一枚を指す。「それと、三週間前にダリウス様から届いた近況報告の手紙——こちら」と左の一枚を指す。
クルトは二枚の封蜡を見比べた。
「……同じだな」
「はい」
形が一致している。丸い輪郭の中に、四角く区切られた紋様。ヴァイス家の紋章でも、財務省の紋章でも、ヴェルドライヒ王国の公式紋章でもない。第三の何かを示す図案だ。
「これをどう解釈する」
ヴィオラが一度だけ息を吸い込んだ。
「フォーゲル管理官とダリウス様が、同じ組織もしくは同じ人物の指示のもとで動いている可能性があります」
感情を抑えた声だった。しかし手が、わずかに震えていた。
「ダリウス様は……クルト様の兄君ですよね」
「ああ」
クルトは封蜡を手に取った。前世の感覚で言えば、これはシールだ。所属の証明。同じ発注元からの書類に同じ印が押してある。つまり、この二人には共通の指示者がいる。
「この紋章が何の組織のものか、分かるか」
「調べが必要ですが」とヴィオラが言った。「この図案……どこかで見た気がします。先代領主の時代の書類の中に、似たような紋様を見かけた記憶があります。資料室を調べれば出てくるかもしれません」
「今夜動く必要はない」とクルトは言った。「記録だけしておいてくれ。この件を表に出す前に、横領の件と合わせて整理する必要がある」
「……横領とも繋がっていると思われますか」
「フォーゲルとダリウスが繋がっているなら、横領の指示もその線から来ている可能性がある。バラバラに見えていたものが、ひとつの構造の一部かもしれない」
ヴィオラがペンを取り出した。「記録を取ります」
書き始める手を、一度意識的に落ち着かせるような仕草をした。クルトはそれを見ていたが、何も言わなかった。
「ご報告は以上です」とヴィオラが言い、立ち上がった。
扉の方へ歩いていき、ドアノブに手をかける。一度だけ振り返った。
クルトが封蜡を机の上に置いたまま、椅子に座って黙っている。
何か言いたかった。でも言葉が見つからず、ヴィオラは静かに扉を閉めた。
室内に一人になった。
ランプの光が封蜡の紋様を照らしている。クルトはしばらくそれを見ていた。
(ダリウスが繋がっているなら)
兄からの手紙には「橋の完成、おめでとう。三男坊も頑張るものだ。何か必要なことがあれば言ってくれ」と書いてあった。友好的な文面だ。自分も一度読んで、悪い気はしなかった。
しかし封蜡の紋章が全てを裏切っている。
前世でも似たことがあった。自分が三十年かけて仕上げた設計が、上司の功績として報告書に載った。「課長のご指導のおかげで完成した」と書かれた竣工式の案内状を見て、しばらく何も感じられなかった。怒りでもなく、悲しみでもなく、ただ「そういうものか」という感覚だけがあった。
今は少し違う。
ダリウスが最初から俺の失敗を望んでいたかもしれない、という事実は——前世とは別の重さがある。前世では仕事の評価の話だった。ここでは、人の命が懸かっている。
(まだ確証がない)
クルトは自分に言い聞かせた。封蜡が同じだという事実があるだけで、ダリウスがフォーゲルに指示したという証明はない。衝動的に動くな。証拠を揃えてから動く。
机の引き出しを開け、封蜡の痕跡が残った書類を丁寧に挟み込んだ。ヴィオラが記録を取っている。それで十分だ。
ランプを吹き消す前に、クルトは工程表を一度広げた。
北面完成まで残り六十九日。横領の調査もある。フォーゲルはまた来る。そして霧の草原では魔物が集まり続けている。
それでも今日できることは一つだけだ。
「……根本から整理する」
呟いて、工程表を閉じた。
明朝、ヴィオラが新しい発見を持ってくるという予感があった。彼女は記録を洗い続けているはずだ。横領の書面偽造。公印の使用記録。誰が、いつ、何を動かしたか——数字は正直だ。必ず痕跡が出る。
ランプを消し、暗闇の中でしばらく封蜡のことを考えた。
怒りは、まだ抑えておける。証拠が出てから使う感情だ。
次話では、今回の判断が現場でどう返ってくるかが見えてきます。
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