第三十五話 霧の向こうの数字
辺境領地改革、毎日5話ずつ更新予定です。
気になったら続きを追ってもらえると嬉しいです。
斥候隊が帰ってきたのは、昼を過ぎた頃だった。
城壁の北面工区で石積みの確認をしていたクルトの耳に、エルドリックの声が届いた。
「クルト。報告がある。こっちへ来い」
口調が違った。いつもの硬直した命令調ではなく、一段低く、絞り込んだ声だった。
現場の作業員たちに「少し待っていてくれ」と言い残し、クルトは足早に詰め所へ向かった。
地図が広げられていた。
エルドリックと三人の斥候が、大きな羊皮紙を囲んでいる。クルトが入ると、斥候のひとりが地図の北端を指差した。
「霧の草原の北部、エーデル川源流域の手前まで踏み込みました。例年なら夏の終わりでもそこに魔物の気配はほとんどないはずですが……」
「数を言ってくれ」
クルトが遮る。
斥候が一瞬間を置いた。
「推定で、例年の三倍以上の群れが確認されました。うち、B級のストーンゴーレムの集積が特に多い。十体単位の群れが、草原南縁部まで降りてきていました」
室内が静まり返った。
「秋の大潮まで、あと三ヶ月はある」とエルドリックが低い声で言った。「なのに、もう南縁まで来ている」
「このペースだと」と斥候が続けた。「大潮の前に小規模な先行侵攻が起きるかもしれません。先行偵察のつもりで動いている個体が複数いました」
クルトは地図を引き寄せ、記録を確認した。印がついている場所、種別の凡例、推定頭数。前世の感覚で言うと、これは現場報告書だ。数字を読む。情報を整理する。感情は後でいい。
(ゴーレム系が多い。それ自体は例年と違うが……)
視線が地図の上を動く。印の分布を見ていると、何かが引っかかった。
「エルドリック、この印の偏り、気づいているか」
「偏り?」
「南側に集中している。でも北側や東側には少ない。例年の報告と比べてもそうか」
エルドリックが眉を寄せて地図を覗き込んだ。「……言われてみれば」
「魔物の動きはそんな単純じゃない」と斥候の一人が言った。「群れの性質や餌の分布で動く。南が多いのは南に食料となる鹿や羊が多いからでは」
「かもしれない」とクルトは答えた。「でも分布に偏りがある以上、理由がある。南にエサがあるから南に来るのか、それとも北や東に何か障害があるから来られないのか」
エルドリックがしばらく地図を見つめた。
「……俺には分からない視点だ。確認するとしたら、何を調べればいい」
「北側の草原の端と、東側の境界線に近い地帯に、もう一度斥候を出してもらえるか。今度は『なぜそこに群れがいないか』を確認する目で」
「分かった。手配する」
エルドリックが斥候に指示を出し始める。クルトは地図に目を落としたまま、頭の中で計算を走らせていた。
(この集積ペースだと、北面の城壁が完成していなければ、先行侵攻が来たとき止め切れない)
詰め所から現場に戻ると、フリッツが顔色を変えて待っていた。
「魔物がそんなに来るんですか」
報告が漏れ聞こえていたらしい。クルトは「ああ」とだけ答え、作業員たちの方を向いた。
「工程を変える。北面を最優先にする。東面と南面は後回しだ」
ざわめきが広がった。「全面同時に進めていたのに」「急に変えて材料は足りるのか」という声が混ざっていた。
ランベルトが腕を組んで前に出た。「待ちな。材料が足りない状態で急いでも質が落ちる。急ぐなら材料を集めてからにすべきだ」
「強度計算をやり直した」とクルトは言った。「北面だけに集中するなら、今ある材料で設計強度を満たせる。東面と南面を同時に進めようとしていたから配分が分散していた。絞り込めば足りる」
「数字は出ているんだな」
「出ている」
ランベルトがしばらく黙って、それから「分かった。北面から先にやる」と言った。
フリッツが手を上げた。「俺は何をすればいいですか」
「石材の搬送を北面の西寄りに切り替えてくれ。明日の朝一番から」
「分かりました」
クルトはそれだけ言うと、作業員たちに向き直った。
「急ぐ理由は、さっき聞いていた通りだ。数字として出ている以上、現実として扱う」
ヴィオラが工程表を持って現場に来たのは、夕方になってからだった。
クルトとエルドリックとランベルトの三人が並んでいるところに、工程表を広げる。几帳面な字で日数が刻まれた表の右端に、新しく列が加えられていた。
「秋の大潮の想定日まで、残り七十三日です」ヴィオラが静かに言った。「北面が完成しなければ、去年の防衛ラインが全て意味をなさなくなります。壕も、罠も、全部内側からの守りに転換しなければならない」
三人が黙って表を見た。
「七十三日で北面を完成させる工程は」とクルトが問う。
「今の人員と材料で、ぎりぎり七十日で収まります。ただし毎日の進捗を私が数字で確認して、遅れが出たら即座に対処する必要があります」
「分かった。記録を頼む」
「記録は正確に。当然です」
クルトは改めて地図を見た。北面の城壁。まだ半分も立っていない。霧の草原から最初に押し寄せる波を受け止めるための壁。間に合わせる。それしかない。
夜、クルトは一人で机に向かっていた。
工程表と設計書と、今日の斥候報告書を並べる。三つの紙が机の上に広がっている。工事は急かされている。資材は足りているが余裕はない。フォーゲルの妨害はまだ続いている。そして草原の向こうでは、例年の三倍の魔物が集積している。
三重の困難だ。前世でも、竣工前に追加工事が入り、予算が削られ、天候不良が重なった現場がいくつかあった。あのとき自分は何をしたか。
(まず間に合わせる方法だけを考えた。他は後だ)
計算書の余白に数字を書き込む。北面の残り面積。一日あたりに必要な石積み量。搬送にかかる時間。現有の職人数と日当たりの作業量。計算は合う。ぎりぎり合う。
「……直せる」
声にならない程度に呟いてから、クルトは窓の外を見た。
北の夜空に、霧の草原の方向がある。何も見えない。ただの暗闇だ。でも向こう側に何かが集まっている。南向きに偏っている理由が、まだわからない。
もし自然な集積でなければ——誰かが誘導しているとしたら。
その仮説は、今日の段階では証拠がない。だからまだ考えない。でも再調査の結果を待つ必要がある。
クルトは計算書を閉じ、工程表を手前に引き寄せた。
翌日の朝、工事現場に戻る。それが今できることの全てだ。
そう考えて、ランプを消そうと手を伸ばしたとき。
扉の下から、一枚の紙が滑り込んできた。ヴィオラの字で、端的な一文だけが書いてあった。
「明朝、フォーゲル管理官から書類が届く可能性があります。心の準備を」
クルトは紙を折って机の端に置いた。
(来るか)
ランプを吹き消した。城壁を急がなければならない理由が、また一つ増えた気がした。
次話では、今回の判断が現場でどう返ってくるかが見えてきます。
続きもよろしくお願いします。




