第二十七話 川の中に立つ者
辺境領地改革、毎日5話ずつ更新予定です。
気になったら続きを追ってもらえると嬉しいです。
「川に入ります」
クルトが言った。
一瞬の沈黙の後、複数の声が重なった。
「無茶です!」とフリッツが言った。
「危険だ」とエルドリックが割って入った。「流されたら助けられない可能性がある。命の問題だ」
「領主様が直接入る必要はないでしょう」とマルクスも言った。「別の方法を——」
「別の方法を試した」とクルトが答えた。「三度とも失敗した。原因は設計の入力値が不正確だからです。川の中央の流速と川底の地質を正確に把握しない限り、締め切りの設計は成立しない」
エルドリックが前に出た。大柄な体が、クルトの正面に立った。
「川で流された人間を俺は何人も見ている。お前は——」
「計算してから入ります」
クルトがその言葉を遮った。
地面に膝をついて、手帳を広げた。鉛筆が走る。
「エーデル川の秋の水位は計測済みです。川の中央でも、深さは胸までと推測できる。岸での流速は毎秒一メートル前後。中央は一・五倍と仮定して毎秒一・五メートル。俺の体重は六十キログラム。足場面積と流水抵抗から転倒のリスクを計算すると——」
数字を書き並べながら、クルトは顔を上げた。
「この範囲なら、足場を確保して安全に立てます。リスクを測定してから入るのと、計測せずに恐怖だけで止めるのは違います」
エルドリックが口を開いた。が、言葉が出なかった。
──────
「ランベルトさん、この綱を持っていてください」
クルトが安全用の綱の端をランベルトに渡した。腰の部分に結び付けて、もう一方の端を老職人の手に。
「……馬鹿野郎が」とランベルトが言ったが、綱を握った手は離さなかった。
クルトが川に入った。
水は、想像より冷たかった。秋の山からの雪解け水が混じっているのだろう、足首まで浸かった瞬間に体の芯まで冷気が走った。流れの圧力が膝の外側に当たる。踏み出すたびに川底の砂利が動く感覚があった。
「領主様!」
フリッツの声が岸から聞こえた。振り返らなかった。
一歩、一歩、中央へ向かって進む。測量棒を川底に差し込みながら、深さを測る。足の裏から、川底の硬さと地質を感じ取る。砂礫の層の下に、岩盤がある。
流れが強くなってきた。腰まで水に浸かった。流水の抵抗が体全体を押してくる。膝を少し曲げ、重心を落として踏ん張る。前世の現場でも、こういう地点確認をしたことがあった。増水した河川の中に入り、橋台の状態を確認した現場のことを思い出した。
あのときは誰も見ていなかった。
今は——岸から、全員が見ている。
その感覚が、水の冷たさより先に体に届いた。
──────
「砂岩……いや」
測量棒を力を込めて川底に突き刺した。手ごたえが違う。砂岩より硬い。「花崗岩質だ。これなら基礎の強度はさらに上がる」
棒を立てて水深を測る。胸のやや下。計算とほぼ一致している。
流れの抵抗を体で感じながら、秒速を概算した。「……流速は秒速一・八メートル。想定より速い。締め切りの設計を変える必要がある」
手帳に書けない。頭の中に数字を刻みながら、岸へ戻り始めた。
その瞬間、右足が川底の丸石を踏んだ。石が転がった。バランスが崩れた。
体が傾いた。
安全綱が張った。
「馬鹿野郎っ!」
ランベルトの声が川の上を走った。老人が全体重を後ろにかけて綱を引き絞る。同時にフリッツが川岸まで走り、腕を精一杯伸ばした。
クルトの手がフリッツの手首を掴んだ。水面から顔を上げる。顔まで川に浸かっていた。右膝を打ったが、骨は大丈夫だ。
「……ありがとう。大丈夫です」
フリッツの目に、涙が滲んでいた。
──────
岸に上がったクルトは、濡れた服のまま設計図を広げた。
誰かが上着を肩にかけようとしたが、クルトは片手で軽く断った。今は止まれない。
「川底は花崗岩質です。流速は毎秒一・八メートル。締め切りの重量を設計値の一・四倍にして、土魔法の厚みを増す。それで押し流されなくなります」
マルクスが数字を確認した。
「……この流速なら、この厚みで計算が合います」
「再設計した土魔法の展開方法はこうです」
クルトが地面に断面図を描きながら説明した。マルクスが真剣な顔で聞いている。ゾフィーがメモを取っている。
「……わかりました。やってみます」
エルドリックがクルトの横に来た。何かを言おうとして、一度口を閉じた。それから、静かに言った。
「……次は俺が入る。お前はもういい」
クルトは顔を上げた。エルドリックが川を見ていた。大柄な体が、少し硬く見えた。
「ありがとうございます」とクルトは言った。「ですが、もう必要ないはずです」
エルドリックが何も答えなかった。
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修正設計に基づき、マルクスが再び締め切りを展開した。
今度は、壁が流れに耐えた。
土魔法の壁が川の中に立ち、内側にゾフィーが排水を始めた。川底が姿を現す。花崗岩の岩盤が、ほぼ想定通りの深さで出てきた。
「やれる!」
誰かが言った。それを合図に、全員が動き始めた。
型枠を組む。砕石を入れる。モルタルを流す。
クルトは濡れた服のまま、施工管理の位置に立ち続けた。右膝が少し痛んだが、声に出さなかった。前世の現場でも、体を打つことは珍しくなかった。問題ない。
「……儂の若い頃にも」とランベルトが横に来て言った。低い声で、笑っているわけではなかった。「炉の中に手を突っ込んで温度を測った馬鹿がいたが、似たような馬鹿がここにもいたか」
「それはさすがに真似しません」
「ふん」
ランベルトが鼻を鳴らした。しかし声に、安堵があった。
川の流れは変わらず速い。しかし締め切りの内側で、職人たちの手が止まらない。工事が、動いていた。
その夜、資材を積んだ荷馬車が数台、工事現場への搬入路を走っていた。翌朝の作業に備えた資材の補充だった。
しかしその翌朝、最初に届いたのは荷馬車ではなく、折り返してきた御者だった。
「……通れません。ガルトナー領の山道に、柵が立てられておりまして」
御者が蒼い顔で言った。「番人が言うには、『伯爵閣下の命で、当面この道を封鎖する』と」
クルトが「……やってきたか」と言い、地図を広げた。
次話では、今回の判断が現場でどう返ってくるかが見えてきます。
続きもよろしくお願いします。




