第二十五話 兄弟という名の監視者
辺境領地改革、毎日5話ずつ更新予定です。
気になったら続きを追ってもらえると嬉しいです。
馬蹄の音が、整備されたばかりの街道石に響いた。
クルトが領主館の門前に出たとき、三頭の馬が近づいてくるのが見えた。先頭を行く男は、上等な旅装に身を包んでいた。栗色の巻き毛、整った顔立ち。馬の上でも背筋が真っ直ぐで、揺れない。
ダリウス・ヴァイス。クルトの次兄。
「ほう……」
ダリウスは馬から降りながら、通りの両側をゆっくりと見回した。視線が街道の石畳を走り、側溝の縁を辿り、修繕された門柱の根元で止まった。
「思ったより整っているな」
独り言のような呟きだったが、クルトの耳には届いた。
「よく来てくれました、ダリウス兄上」
「久しぶりだ、クルト」
ダリウスが手を差し出した。握手の手は柔らかく、しかしきちんと力があった。笑顔は温かく、目が細くなって、いかにも再会を喜んでいるように見えた。
「弟よ、辺境に赴任して半年以上が過ぎた。父上も心配していたよ。私が様子を見に来るのは当然だろう?」
「ありがとうございます。進捗をぜひ見てほしいと思っていました」
「そうしよう。案内してくれ」
──────
視察は午前中いっぱいかかった。
クルトがダリウスを連れて歩いたのは、整備した主要道路、機能を取り戻した東の水路、そして採石場の下見地点だった。ダリウスは立ち止まるたびに感嘆の声を上げた。
「これはすごい。本当に半年でここまで?」
「道路は三ヶ月かかりました。排水の設計から始めましたので」
「なるほど」
ダリウスが懐から小さな革表紙の手帳を取り出した。
「視察の記録だよ。父上に報告するためのね」
鉛筆を走らせる。クルトはその速さが少し気になった。ダリウスが書いているのは、概要のようなものだろうか。それとも——。
「この水路の幅は何フィートだ?」
「設計で六フィート。勾配は百分の一です」
「ふむ」
また鉛筆が動いた。手帳の頁が、すでにいくらか埋まっていた。
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ランベルトの工房には昼前に立ち寄った。
「辺境伯の御子息が直々に……」
ランベルトが珍しく、少し緊張した様子で迎えた。作業台を離れて両手をエプロンで拭い、軽く頭を下げる。六十二年生きてきた職人が、身分を前にして一瞬だけ立場を意識した——そういう仕草だった。
「あなたの腕前は弟から聞いていました」とダリウスが言った。穏やかで、しかし明確に敬意を込めた声だった。「素晴らしい仕事をされているとのことで、直接お会いしたかった」
ランベルトが「……お若いのに、鉄の見方を知っている方で」と応えた。これはランベルトとしては、かなり好意的な反応だとクルトは思った。
クルトは少し離れた場所に立って、二人のやり取りを見ていた。
ダリウスは人心を掴む。昔からそうだった。場の空気を読んで、相手が聞きたい言葉を選ぶ。それは才能だとクルトは思っていたし、今でもそう思っている。
ただ、手帳が——また開かれた。
ダリウスが工房を眺めながら、さりげなく鉛筆を走らせている。炉の位置、設備の規模、壁際に並んだ材料の量。
クルトはその鉛筆の動きを、目の端で追いながら、何も言わなかった。
──────
夕食は三人で食べた。ヴィオラが同席し、記録係として横にいた。
ランプの灯りの下で、ダリウスがワインを片手に話を続けた。表情は柔らかく、話題は次々と変わった。道路の工法。水路の設計。採石場の計画。そして——。
「橋の建設は、かなり大規模な工事になるな。資金はどこから?」
「領地の税収の先行投資と、ブレスラウ子爵からの一部支援です」
「ブレスラウ子爵と話が進んでいるそうだが、どんな条件で?」
「交易路の共同利用と、技術の共有です」
「ガルトナー伯爵との関係はどうなっている?」
クルトは答えながら、何かが少しずつ積み重なる感覚を覚えていた。質問が、続く。橋の設計寸法を問われた。使用する鉄材の量を問われた。施工の手順を問われた。まるで——ヒアリングだ、と思った。弟の近況を聞く声ではなく、現場の調査に来た者の声。
「兄弟として心配しているだけだよ」
ダリウスが笑った。声に棘はない。目も細くなっている。
それでも、クルトは疑念を飲み込んだ。これは兄だ。父の元へ報告するための視察だ。細かく聞くのは当然かもしれない。
そう自分に言い聞かせながら、答え続けた。手帳のページが、めくられる音だけが耳に残った。
──────
夕食の後、ヴィオラがクルトの執務室に来た。書類を手に持ったままで、少し表情が硬かった。
「……あの方、書類の内容に興味がある様子でした」
「どういう意味ですか」
「夕食の前、ダリウス様が控え室を通られたとき、私が整理していた橋の設計図と資材発注書をご覧になっていました。しばらく目が止まっていたので」
クルトは何も言わなかった。
「それだけです」とヴィオラは続けた。「ただ——私には、視察記録というよりも、何かを調べているように見えました」
「ありがとう」とクルトは言った。「今日のところは、以上で」
ヴィオラが部屋を出た後、クルトは机の上の設計図を見た。橋の全体設計図、橋脚の寸法図、鉄材の使用量の計算書。
何気なく、一枚を引き出して抽斗の中にしまった。
なぜそうしたのか、自分でもよくわからなかった。ただ、そうした。
──────
夜遅く、クルトは手帳を開いて今日のことを整理しようとした。しかし鉛筆が進まなかった。
橋の設計寸法を手帳に書いていた。施工工法まで。
父上への報告に、そこまでの詳細が必要か。
疑うのは早計だ。これは自分の兄だ。
——それでも、何かが微妙にずれていた。
前世でも、ああいう人間はいた。いい顔をして近づき、情報だけを持って去る人間が。現場では珍しくない。しかし、あれは自分の弟を心配する兄の姿だったはずだ。
クルトは手帳を閉じた。答えを出すには、情報が足りない。今は工事に集中するべきだ。
明日から、橋の本工事が始まる。
──────
翌朝、ダリウスが馬に乗る前に振り返った。
「頑張れよ、クルト。——ああ、そうだ」
何かを思い出したように付け加えた。声は穏やかで、表情には心配の色があった。
「中央から視察が来るかもしれない。父上が上に話をしているようだよ。悪い話ではないはずだが——準備しておいたほうがいい」
馬が動いた。供連れの二騎も続いた。
「視察……」
クルトは小さく繰り返した。
ダリウスの後ろ姿が街道の角を曲がるまで、クルトはそこに立っていた。何かが胸の中に引っかかっているが、言葉にならない。
エルドリックが横に来た。無言で、その背中を見ていた。
「……あの御方」と、エルドリックが静かに言った。「いつも何かを測っているような目をしておられた」
クルトは答えなかった。
川の方角から、朝の風が来た。本工事の初日。資材が届く日だ。
今は、橋のことだけを考えよう。
次話では、今回の判断が現場でどう返ってくるかが見えてきます。
続きもよろしくお願いします。




