第20話 次の設計図を広げる
ここまで読んでくれてありがとうございます。
節目の回です。物語と領地の両方が一段進みます。
「……儂にもっと難しい仕事をくれ」
朝の執務室に、ランベルトが来た。
扉を叩くでもなく、ずかずかと入ってきた。いつもの前がけ、いつもの皮帯。しかし、いつもと少し違うのは、声の中に何かが混じっていた。照れ隠しと、本音が。
「水路の鉄金具ごときでは、儂の炉は使い切れない」
クルトはテーブルの上の紙を見ていた。設計図だった。昨夜から広げっぱなしにしていた。ランベルトが入ってきた瞬間、その紙が目に入ったはずだったが、老職人はまだ気づいていないようだった。
「ちょうどよかった」
クルトが静かに言った。
「これが次の仕事です」
設計図を正面から向き直した。テーブルの端まで広げた。
ランベルトが一歩近づいた。
設計図の上部に文字が書いてあった。「エーデル川橋梁基本設計(第一案)」。ランベルトの目がその文字を追った。
「……橋か」
「川を渡る橋です。エーデル川の東側、ドルフ村との間に架けます」
ランベルトが沈黙した。
クルトは何も言わなかった。老職人に設計図を見せる時間を取った。川を跨ぐアーチ構造の線が走っている。基礎杭の配置が書き込まれている。上部構造の荷重計算の数字が欄外に並んでいる。水路の石積み図とは、規模が違う。
「……この部分」ランベルトが指で一箇所を示した。「鉄をどう使う?」
「アーチの支点部分の締め金に使います。引っ張り力ではなく圧縮力が中心になるので、鋳鉄より鍛鉄の方が適しています」
「こんな大きさの鉄材を作ったことがない」
「製鉄炉の改良が先になります。温度管理ができれば、必要な鋼材は作れる」
「炉を直してから、か」
「最初から全部鉄にする必要はありません。石とのハイブリッド構造で段階的に建てます。最初の橋は石アーチを主構造として、鉄は要所にだけ使う。財政的な制約もあります」
ランベルトがアーチの線をじっと見た。
「アーチが崩れないのか、これで」
「支点を正確に作れれば崩れません。石は圧縮に強い。アーチ構造は圧縮だけで力を伝えます」
「……難しいな」
ランベルトが言った。
「できないとは言っていない」と続いた。
「難しい仕事をくれと言ったのはあなたです」
「……そうだったな」
老職人の口元が、わずかに動いた。どちらとも取れる動きだったが、クルトには「笑っている」と見えた。
扉を叩く音がした。
「失礼します」
ヴィオラが入ってきた。計算紙を持っていた。
「橋の建設費の概算をまとめました」
「いつの間に」
「昨夜です。設計図がテーブルにあったので、大まかな規模は把握できました」
クルトは紙を受け取った。数字が並んでいた。
「水路より大規模になります。今の財政状況では、ヴァイス家への追加資金要請か、別の収入源が必要です」
「それでも」とヴィオラが続けた。「建てるべき理由の数字も一緒に出します」
別の紙を広げた。
「橋ができれば、ドルフ村が領地の流通網に入ります。ドルフ村の農地面積と現在の生産量から試算すると、税収が年間で銀貨二十枚以上増える見込みです。五年の黒字転換が、三年に短縮できる可能性があります。フリッツさんの農地報告によると、今週の発芽率が昨年比で顕著に高い——この傾向が続けば、楽観的な推計は現実的になってきます」
「記録は正確に」
「はい。いつも通りです」
ランベルトが設計図から視線を上げて、ヴィオラの計算紙を見た。数字を見て、また設計図に視線を落とした。
そのとき、外から伝令が来た。
「領主様、東の方からドルフ村の代表が来ています。橋を作ってほしいという要望を持ってとのことです」
クルトが言った。
「……来るのが早いな」
思ったより口元が動いた。意図したものではなかったが、笑っていた。
伝令が続けた。
「もう一件あります。南からガルトナー伯爵家の使者が来ています。通行税の件でお話がしたいと」
クルトの表情が少し硬くなった。
「……こちらが動くと、向こうも動く」
小声だった。
ランベルトが設計図を指で叩いた。
「橋を作るなら、儂の鉄を使え」
命令口調だったが、頼んでいる内容だった。クルトはそれを理解した。
「もちろんです。最初からそのつもりでした」
「炉の改良図は持ってきたか」
「今日の午後、持っていきます」
「……わかった」
ランベルトが踵を返した。去り際、設計図をもう一度だけ見た。
「難しい仕事だ」
「そうです」
「……やってみる」
老職人が出ていった。
ヴィオラが「ランベルトさんにしては珍しい言葉でしたね」と言った。
「そうですか」
「あの方が『やってみる』と言うのは、初めて聞きました。本当に初めてです」
クルトは設計図を見た。
前世では、設計図を一人で見ていた。隣に誰かがいることはなかった。数字を見てくれる人間も、設計図を本気で見てくれる職人も、いなかった。仕事の成果を数字にして報告してくれる人間も。
今は、隣に人がいる。
「俺はここの人たちのために建てているのか」と自問したのは、いつだったか。まだ答えは出ていない。しかし、今このテーブルを囲む三人の顔を見ていると、「答えを出す必要があるのか」という気もしてくる。
扉の向こうから、伝令が待っている声がした。ドルフ村の代表が来ている。話を聞かなければならない。ガルトナー伯爵の使者の件も処理が必要だ。橋の建設資金の算段も立てなければならない。
やることが山積みだった。
前世でも、いつもそうだった。終わらない仕事の山が常にあった。ただ、あのころと違うのは——今は、山の向こうに何があるかが見えている。
クルトは設計図を丁寧に巻き、革の筒に収めた。
「ドルフ村の代表を呼んでください」
「はい」
扉が開いた。
ここで一区切りですが、次からまた状況が動きます。
続きも読んでもらえると嬉しいです。




