第18話 去年まで枯れていた畑が
辺境領地改革、毎日5話ずつ更新予定です。
気になったら続きを追ってもらえると嬉しいです。
「領主様!枯れていた畑に水が来ています!色が変わってます、土の色が!」
フリッツが息を切らして駆け込んできた。
通水から三日目の朝だった。クルトは執務机で排水計画の修正図を引いていたが、手を止めた。
「どの畑ですか」
「第一水路の末端から東側、全部です!去年まで乾いていたやつ!」
「行きます」
クルトが外套をつかんで立ち上がると、フリッツが既に扉のところで待っていた。
農地に出ると、土の匂いが変わっていた。乾いた土の匂いではなく、水を吸った土の、湿った重い匂いだ。畝の色が明らかに変わっている。灰褐色だった表面が、暗い濃い茶色になっていた。水が染み込んでいる。
「ゲオルクさん!」
フリッツが声をかけた。畦道に老農夫が立っていた。六十を超えた、背の曲がった男だ。畑を見つめて、動かなかった。
「ゲオルクさん、大丈夫ですか」
「……十年ぶりだ」
老農夫が、かすれた声で言った。
「先代の領主様が倒れてから、この畑に水が来たのは初めてだ。ここは川から遠い。水路が壊れてからずっと、夏の後半は毎年諦めていた」
クルトは畦道に立ち、農地を見渡した。確かに水が来ている。末端の畝まで届いている。ただ——水が届いていない列がある。一番東の端の三列、土の色が変わっていない。
「フリッツ、あの三列は水が届いていない。水路の支線の出口を確認してください。詰まっているか、角度が足りないかどちらかです」
「わかりました!」
「あと、こちらの西側の列は水が多すぎる。湿地化しそうな箇所がある。排水の調整が必要です」
「それも確認します!」
フリッツが走っていく。クルトは農地の中に入り、畝の状態を踏んで確かめた。水の浸透状況、土の固さ、表面の凸凹——水が来たから終わり、ではない。使い方が問題だ。水が偏れば腐る。足りなければ意味がない。適切に管理して初めて農地として機能する。
「お見事です」
ゲオルクが言った。
「設計通りです」
「そういう意味じゃない」とゲオルクは言った。「十年、誰も何もしなかった。それを、あなたは来てすぐに動いた」
クルトは何も返せなかった。前世では、農家の顔を一度も見なかった。水路が整備されても、それを使う人間の顔を。今、目の前にいる。十年分の諦めを持った顔が。
それを見ていると、何かが胸の内側を押した。
午後、ランベルトがやってきた。
ノルトクロイツの農地に出てくることは珍しかったが、老職人は迷いのない足取りで畦道を歩いてきた。
「水路の鉄金具だが」
「はい」
「今のものでは三年もたない。耐水性が足りない。作り直した方がいい」
「では改良していただけますか」
「ついでに炉も直す」
クルトは一拍止まった。
「炉を?」
「儂の炉では限界がある」とランベルトは言った。職人らしくない言葉だった。できないことを認める言葉は、長年の経験を持つ職人にとって容易に出るものではない。「温度が安定しない。燃料の問題か、炉の構造か、十年以上わからないままだ」
「温度を安定させる方法があります」
「……何?」
「燃料ではなく、空気の量で温度を制御します」
ランベルトの目が変わった。
クルトは説明した。炉の通気構造の話だ。前世で工場設備の熱処理炉を設計した経験がある。空気の流入量を調整することで燃焼温度を精密に管理できる。炉の形状次第で、温度の均一性も変わる。この世界の炉は通気の設計が粗い。改良の余地は大きい。
「……聞いたことのないやり方だ」
「やってみなければわかりません。ただ、原理は正しい」
ランベルトが腕を組んだ。目の中で何かが動いていた。「興味がある」という光だと、クルトにはわかった。長年解けなかった問題への、職人の本能的な反応だ。
「……お前は本物だな」
ランベルトが言った。
四十年以上、自分の炉と腕だけを信じて生きてきた老職人が、他人を「本物」と呼ぶ。それが何を意味するか、クルトにはわかった。
間があって、クルトが返した。
「……そちらも本物です」
「言ってから言うのが遅い。今更そういうことを言うな」
「失礼しました」
「ただし」とランベルトがすぐ続けた。「水準器の設計はまだ納得していない。あれは改良が必要だ。認めた部分と認めていない部分は別の話だ」
「わかりました。水準器については後で検討します」
フリッツが走って戻ってきた。
「西側の支線、詰まりがありました!石が一個落ちていて——修正したら水が来ました!東の三列も今確認して、角度を直したら届きそうです!」
「よかった。今日中に確認してください」
「はい!」
ランベルトが、農地を一度だけ見渡した。水を吸って色の変わった土を見て、水路の石積みを見て、そして元の方向に歩き始めた。
「炉の改良は、具体的な図を持ってこい。儂が確認する」
「はい」
「早い方がいい。冬が来る前に改良しておきたい」
「明日、持っていきます」
ランベルトが去っていった。
夕方、ゲオルクが「発芽が早い。今年は違う」と言っていた。確かなことはまだわからない。しかし土の色は変わっている。十年ぶりに水を吸った土が、何かを変えようとしているのは見えた。
ヴィオラが翌朝、「収穫期前に財政数字をまとめたいのですが」と言った。「今の状態を数字で把握しておかないと、これからの計画が立てられません」と。
クルトは「明日、聞かせてください」と答えた。
水路の水が流れる音が、農地の向こうから聞こえていた。
次話では、今回の判断が現場でどう返ってくるかが見えてきます。
続きもよろしくお願いします。




