第17話 水が動く日
辺境領地改革、毎日5話ずつ更新予定です。
気になったら続きを追ってもらえると嬉しいです。
「目地の詰め方が甘い箇所がある」
ランベルトが石積みを指先で叩きながら言った。
クルトは振り返らなかった。第三水路の石積みを手で触れ、目地のモルタルの固まり具合を確かめていた。通水前の全線確認。取水口から末端まで、二キロ以上を歩いて一箇所ずつ見ていく。これは省けない工程だ。
「どこですか」
「三箇所ある。後で案内する」
「今から見せてください。修正します」
ランベルトが少し間を置いた。「素直に聞くんだな」という声が、驚いたような響きを帯びていた。
「正しい指摘は聞きます」
ランベルトが三箇所を指摘した。一箇所目は第一水路と第二水路の分岐点の直前、石積みの角の部分。二箇所目は勾配が変わる屈折点の外側。三箇所目は石の大きさが変わった箇所の境目だった。いずれも、水流が当たりやすい場所だ。クルトはその選点に、職人の目が宿っているのを感じた。
修正を作業員に指示した。その場で材料を持ってこさせ、丁寧に目地を詰め直す。ランベルトは作業を横で見ていた。何も言わなかったが、背後に何かを感じながら見ていることはわかった。
確認を終えたとき、太陽が南中を過ぎていた。
取水口の周りに、人が集まっていた。
フリッツがいた。ヴィオラがいた。作業員たちがいた。少し離れた場所に、エルドリックが腕を組んで立っていた。村人が数人、水門の周辺に来ていた。誰も声を出していなかった。
「どうぞ、領主様が開けてください」
フリッツが言った。水門のレバーを示しながら。
「フリッツが開けてください」
「……俺が?」
「この水路のために一番動いてくれた人間が開けるべきだ」
フリッツが固まった。顔に何かが走った。動揺とは違う、もっと別の何かだった。
「俺が……開けていいんですか」
「開けてください」
フリッツがゆっくりと水門に近づいた。レバーに両手を添えた。手が止まる。何かを飲み込むような一瞬があった。
フリッツがレバーを引いた。
音が来た。
ごうごうと、低く重い音が水路に流れ込んだ。エーデル川の水が、取水口から水路へ、設計した勾配に従って走り始めた。最初は濁った色だった。砂礫が混じって、褐色に近い。しかし二分、三分と経つうちに、色が変わった。澄み始めた。
水が、末端まで届いた。
フリッツがその場に崩れるように膝をついた。水路に手を入れた。冷たい川の水が指の間を流れた。
「やっと……やっと水が来た」
ヴィオラが記録帳に何かを書いていた。時刻と水量を記録している。ただ、その手が少し震えていた。「記録完了しました」という声が、わずかに上ずった。
「去年は夏に二度、水が足りなくて畑が半分やられた」
フリッツが言った。膝をついたまま、泣いていた。泣いていることを恥ずかしいとも思っていないようだった。「それを考えると……本当に、やっと」
クルトは水路の末端に立って、水面を見ていた。
前世では、誰も見ていなかった。
水路が完成しても、通水しても、自分はその場にいなかった。設計を終えたら次の現場に移る。誰かが喜んでいても、それを見る機会はなかった。
今は目の前に人がいる。
名前を知っている人間が、水に手を触れて泣いている。
それが何かを変えた——言葉にはならなかったが、何かが変わった。
「……きれいに流れているな」
ランベルトの声だった。
独り言のような、小さな声だった。老職人は水路の石積みを見ながら立っていた。水が流れる音を聞いていた。
そして——口の端が、わずかに上がった。
クルトはそれを横目で確認した。
何十年もの職人仕事の中で、おそらく数えるほどしか見せたことのない表情だと思った。余計なことは言わなかった。ただ、手帳に今日の日付と「通水確認・全線正常」と書いた。
水が流れ続けた。
エルドリックが少し離れた場所で、フリッツが泣くのを見ていた。「……農民にとっては、そこまでのことか」と静かに言う声が、クルトのいる場所まで届いた。
答える人間はいなかったが、それは問いかけではなかったと思う。
勾配が少し緩い箇所がある。クルトはそれを確認していた。堆積しやすい場所だ。「半年に一度は確認が必要だ」とフリッツに言っておく必要がある。インフラは作って終わりではない。使い続けるための管理が必要だ。それを誰かに伝えなければならない。
水が、流れ続けていた。
フリッツが立ち上がった。濡れた手を拭いて、「次の農地の確認に行っていいですか?」と言った。目が赤くなっていたが、声はもう落ち着いていた。
「行ってください。末端の水量も確認してきてください」
「はい!」
フリッツが走っていった。水が流れる音の中を。
ランベルトはまだそこにいた。クルトが視線を向けると、老職人は石積みを手で触れていた。目地の修正箇所を確かめている。確かめながら、何かを確認している。
数日後、フリッツが「農地への水が届き始めている」と報告してくるはずだ。そのとき、また次の問題が浮かび上がってくる。インフラはそういうものだ。一つ直せば、次が見えてくる。
それが、嫌ではなかった。
次話では、今回の判断が現場でどう返ってくるかが見えてきます。
続きもよろしくお願いします。




