第16話 川は待ってくれない
辺境領地改革、毎日5話ずつ更新予定です。
気になったら続きを追ってもらえると嬉しいです。
ヴィオラが水位記録の紙を広げた。前夜の工事前の最終確認。ランプの光の下、数字が並んでいる。
「過去五年の記録を見ると、エーデル川は三月の後半から水位が上がり始めます。現在は低水位期の末尾。今が取水口工事のウィンドウです」とヴィオラが言った。
「最大流量と最小流量を出してください」
「こちらです」
クルトが計算式に当てはめていく。最大流量——雨季のピーク時。最小流量——渇水期の底。取水口の開口部のサイズは、最小流量時でも必要量が確保できる大きさでなければならない。
「この計算は正確ですか?」とヴィオラが問いかけた。
「数字は正確です」とクルトは答えた。「ただし、川が計算通りに動くかどうかは別の話です」
「別の話……」
「川は生き物に近い。計算は最善の予測だが、自然は予測の外で動く。だから確認しながら進める」
ヴィオラが何かを書き留めた。
「……その計算の仕方と現場の対応の仕方が、私には同じものに見えます」と言った。「数字と、でも数字通りではない、という」
「エンジニアはそういうものです」
──────
夜明け前から作業員が川岸に集まった。
エーデル川は、この時期は穏やかだった。水は透明で、川底の砂礫が見える。取水口の位置は事前に決めてある。基礎石を据える場所を、測量杭で示してある。
クルトは作業員に段取りを確認させてから、まず川に入った。
冷たかった。足首まで水に浸かりながら、川底を手で探る。設計図では、砂礫層の下に岩盤があるはずだった。
「深い」とクルトは言った。
砂礫層が、想定より深い場所にある。設計図と実際が、ずれている。
「基礎石を置く前に、仮締切工が必要です」
仮締切工——工事エリアの周囲に仮設の壁を作り、水を外側に回して、内部を乾いた状態にする技術。土魔法で作れる。
「俺がやります」とエールスが言った。
「私がやります」とクルトが言った。「魔力の使い方が特殊になるので」
エールスが少し複雑な顔をした。「領主様が……」
「仮締切は精密制御が要ります。D級の魔力でも、制御が正確なら使える」
クルトは水中に入り、土魔法を展開した。
川底から壁を立てる。水流に押されながら、正確な形を維持する。前世の型枠工の技術と同じだ——水圧に対して垂直に立て、継ぎ目に隙間を作らない。
壁が立った。エーデル川の一部の流れが、壁の外側を迂回し始めた。壁の内側に、乾いた空間が出来上がっていく。
「仮締切完成」とクルトは言った。「作業開始。急いでください」
──────
作業員が基礎石の運び込みを始めた。
フリッツが先頭に立って動いた。「もう一個! 次!」と声をかけながら、自分も石を抱えて走る。土砂にまみれながら、手を止めない。
ヴィオラが測量杭の目盛りを読んでいた。
「水位、安定しています」
「了解」
クルトは仮締切の壁を維持しながら、現場指揮を続けた。土魔法の維持は、話しながら他の判断をしながら、という使い方を要求する。魔力が細い流れのように、常に壁に注がれていく。
三十分が経った。
「水位、2センチ上昇」とヴィオラが言った。
上流で雨が降っているのかもしれない。計算外ではないが、早い。
「作業を急いでください。あと一時間半」
作業員の動きが速くなった。基礎石が一つ、二つと据えられていく。石の水平をランベルトの水準器で確認し、ずれていれば調整する。
「水位、さらに3センチ」
「了解」
クルトの体が、少しずつ重くなり始めた。魔力の消耗だ。前世なら体力の問題だった。今世では魔力が体力に比例して減る感覚がある。
「撤収しますか」とエールスが低く言った。
「あと基礎石がいくつ残っていますか」
「四個です」
クルトは計算した。四個を据えるための時間。仮締切の壁がもつ時間の余裕。
「続けます」
エルドリックが、川岸の外側で作業員の安全に目を配っていた。増水が始まった頃から、川に近い作業員の腕をつかんで「もう少し内側に」と動かしている。言葉は少ないが、目が全体を見ていた。
「基礎石、最後の一個」
「水位、7センチ上昇。急いで」とヴィオラが言った。声が少し高い。
フリッツが最後の石を担いで走った。クルトが壁を維持しながら石の据え付けを監視する。石が正確な位置に収まった。
「完了」
「壁を解除します」
クルトが土魔法を解除した。
川の水が戻ってきた。仮締切の内側に水が流れ込み、基礎石が水に沈む。
全員が岸に上がった。クルトも、最後に上がった。
足元が少しふらついた。魔力切れに近い状態だ。岸の石に手をついて、呼吸を整えた。
「今日の工事はここまで。基礎は完成しました」
作業員たちが地面に座り込んだ。フリッツが「やった……やりましたよ!」と言った。
エルドリックがクルトの傍に来た。「増水したとき、川に落ちそうな者が二人いた。そちらを抑えた」
「助かりました」とクルトは言った。
エルドリックが少し間を置いた。「……今日の工事の指揮、見ていた。剣では解決できない種類の戦いだな」と言った。
武人が「剣では解決できない」と認めるのは、容易ではない。評価なのか、感想なのか、よくわからなかった。しかし言葉が出てきたことは、確かだった。
(あの男も変わりつつある)クルトは思った。変えたわけではない。ただ、見せた。それだけで十分だ。
──────
翌日から残りの取水口工事が続いた。
現場の端で作業を続けているとき、見慣れない人影が水路の石積みを見ていた。
ランベルトだった。
「なぜ来たんですか」とクルトが言った。
「……鑿の出来を確認しに来た」とランベルトが言った。
しかしその目は、鑿ではなく、水路の構造を見ていた。石の積み方、目地の入れ方、水の流れる勾配の計算。じっと見ていた。
クルトは何も言わなかった。
見せておけばいい。
次話では、今回の判断が現場でどう返ってくるかが見えてきます。
続きもよろしくお願いします。




