第15話 封印された言葉
辺境領地改革、毎日5話ずつ更新予定です。
気になったら続きを追ってもらえると嬉しいです。
紙の端が少し黄ばんでいて、蝋の封印が半分ほど溶けかかっている。家紋の刻印——ノルトクロイツの領主家の紋章だ——がうっすらと残っていた。封筒の表には、几帳面な文字で書かれていた。
「クロイツ文書第三番・開封禁止」
「先代領主様の書類です」とヴィオラが言った。うつむいたまま、言葉を選んでいる。「整理中に出てきたのですが……封印がまだ完全ではなくて、どうすべきか迷って、ずっと持ち歩いていました」
「誰の命令で保管していたんですか」
「命令では、なくて……先代様が倒れられる前に、書類の整理を私に任せてくださっていたので」
クルトは手を伸ばしかけて、止めた。
「開封するかどうかは後で決めます。表書きだけ教えてください」
ヴィオラが封筒の外側をもう一度見た。「……後継者への申し送り——水路について、と書いてあります」
クルトは少しの間、その言葉を頭の中に置いた。
先代領主が、水路について後継者に伝えようとしていた。
「先代は水路整備に取り組んでいたんですか」
「はい」とヴィオラが答えた。声が少し変わった。書記官の声ではなく、個人の声に近くなった。「亡くなる半年前から、水路の調査を始めていました。私も記録を手伝いました。でも、工事が始まる前に倒れられて」
「病死と聞いています」
「……そう、されています」とヴィオラが言った。
その言葉の続きが来なかった。
「何か言いたいことが?」
ヴィオラが顔を上げた。眼鏡の奥の緑の瞳が、少し揺れていた。
「倒れる前日まで、元気でいらっしゃいました。調査の記録を私に渡して、『ヴィオラ、これを大切に取っておいてくれ』と言っていたのに——次の日には……」
クルトは何も言わなかった。
「先代様は良い人でした」とヴィオラが言った。「それだけです」
クルトは封筒を見た。「今は開けない。ただ、この書類は大切に保管してください」
ヴィオラが一瞬、肩の力が抜けたように見えた。「……はい」
(病死ではないかもしれない)
頭の中でその考えが動いた。打ち消した。根拠がない。証拠がない。今は水路を完成させることが先だ。
しかし手帳に、一行だけ書き付けた。「クロイツ文書第三番——時機を見て確認」
──────
翌日から、取水口に向かう水路の測量作業が続いた。
クルトが水準器を持ち、エールスが目盛りを読み、フリッツが測量杭を打つ。午前から昼を過ぎても、作業は黙々と続いた。
気がつくと、周りに人が増えていた。
最初は「見物」のつもりだったのだろう。農民が二人、三人と作業の周りに立って眺めている。ヴィオラが「通行の邪魔にならないように、少し下がってください」と言うと、素直に下がった。しかし帰らなかった。
「杭を持っていてください」とクルトは傍に立っていた農民に言った。
農民が「え」と驚いた顔をした。「俺が?」
「持ってもらえれば助かります」
農民は二秒迷ってから、杭を受け取った。
それで何かが変わった。
縄を張る作業に別の農民が加わり、砂利を均す作業にまた別の誰かが加わった。「こっちを」「そこ」と役割を振るとき、クルトは礼を言わなかった。仕事として扱った。それが良かったのかもしれない。
昼過ぎには、頼んでもいない農民が弁当を持ってきた。
「差し入れです」と言って、照れた顔で置いていった。
フリッツが「なんか、領地全体が動いている気がします」と言った。
「人に役割を渡すと動きます」とクルトは言った。
「領主様が最初から動いていたから、みんなも動けるんだと思いますけど」
クルトは何も言わなかった。
ゲオルクが測量の列の端で杭を持っていた。「先代様の頃も、水路調査のとき、みんなで手伝ったものだ」とつぶやいた。「あのときも、こんな感じだった」
フリッツが「先代様って、どんな人だったんですか」と訊いた。
「真面目な人だったよ。農地のことを本当に気にかけていた。ただ……早かったな。倒れるのが」
クルトは測量を続けながら、そのやり取りを聞いていた。
先代も水路を調査していた。ゲオルクの記憶に残るくらい、農地を歩いた人間だった。
(同じことをしていたのか)
前世でも、誰かが始めかけた計画を引き継いだ現場があった。中途半端な状態から、完成させることの方が、ゼロから始めるより難しいこともある。
今回は、完成させる。
水準器の気泡が、ゆっくりと水平に落ち着いた。
──────
夕方、測量の区間が一段落したとき、ヴィオラが「明日の作業の準備をします」と手帳を取り出した。
「今日の農民の方々の参加を記録しました。十七名、延べで計算するとかなりの労働力になります」
「記録はありがたい」
「クルト様」とヴィオラが言った。「先代様の書類の件……ありがとうございました。大切に保管します、と言ってくださって」
「大事なものは大事に扱う方がいい」
「でも……いつか、中を見なければならない日が来ると思います」
「来たときに考えます」
ヴィオラが一瞬だけ、何かを言いかけた顔をした。それから「そうですね」と言って、手帳を閉じた。
翌朝、クルトが取水口の設計図を広げると、ヴィオラが「この工事、川の水量が変動する時期と重なります」と計算紙を出してきた。
「先週の記録では水位が——」
クルトは数字に目を落とした。
川は待ってくれない、か。
次話では、今回の判断が現場でどう返ってくるかが見えてきます。
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