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第3話 密室ではない部屋

 事件が起きたのは、午後六時四十分。

 市内でもそこそこ格式があることで知られる会員制文化サロン《白梟倶楽部》の二階、談話室《月の間》で、サロン理事長の白根公平が、頭からクリームまみれになって気絶しているのが発見されたのである。


 もっとも、気絶といっても一時的なもので、命に別状はなかった。

 白根公平は床に倒れたまま、皿に顔面をつっこんでいた。どうやら高級モンブランが、彼の顔面と真正面から衝突したらしい。


「これは……」

 と田所刑事が言った。

「ただのケーキ事件では?」


「違います!」

 とサロン支配人の荻原が叫んだ。

「ただのケーキ事件ではありません! 《月の間》は、完全なる密室だったのです!」


 その場にいた全員が部屋を見た。


 扉は開いていた。

 窓も開いていた。

 しかも奥のテラスへ出るガラス戸まで半開きだった。


 さらに言えば、廊下には「本日、換気強化中につきドアは開放しております」と貼り紙がある。


「……どこが?」

 と田所刑事が言った。


 だが、支配人の荻原は断言した。


「密室です!」


「開いてますよ」

「しかし密室なのです!」

「開いてるんですよ」

「ですが密室なのです!」


 会話が先に壊れていた。


 そこへ、談話室の入口で黒い外套をひるがえす男が現れた。


 名探偵・明智院金四郎である。


 彼は開け放たれた扉をひと目見るなり、目を細めた。


「……なるほど」


「始まった」

 と田所刑事が小さく言った。


 明智院は床のモンブラン、倒れた白根公平、開いた窓、開いた扉、開いたガラス戸を順番に見たあと、静かに告げた。


「完全な密室だ」


「全然完全じゃないんですけど」

 と田所刑事。


「君はまだ見えていない」

 明智院は言った。

「密室とは、扉の鍵によって決まるものではない」


「え、じゃあ何で決まるんですか」

 と文化サロン会員の一人、小説家の里村が聞いた。


「空気だ」


 沈黙。


「空気」

 と田所刑事。


「そうだ。

 人が“入れない”と思い込んだ瞬間、その部屋は密室になる」


「だいぶ思想が強いな」

 と会員の弁護士・柿崎が言った。


 床に倒れていた白根公平がうめいた。


「う……誰だ……私の顔に……モンブランを……」

「被害者、意識戻りました」

 と田所刑事。

「じゃあ事情を聞けますね。解散でもいいですか」


「待ちたまえ!!」


 もちろん明智院である。


「事件は今、ようやく始まったところだ」


「いや、被害者起きたんでかなり終わりに近いです」

 と田所刑事。


 だが明智院はもう止まらない。

 彼は床に落ちたフォークを拾い上げた。銀製で、持ち手には《白梟倶楽部》の刻印がある。


「凶器はこれか」


「凶器というか、ケーキ食べる用ですね」

 と支配人の荻原。


「では、誰がこのフォークとモンブランを用い、理事長の顔面に痛烈な一撃を与えたのか」

「“与えた”っていうか投げつけたんでしょうね」

 と田所刑事。


 白根公平はソファにもたれかかりながら怒鳴った。


「犯人は会員の三枝だ! さっきから私の新方針に文句ばかり言っていた!」


 視線が一斉に、一人の中年男へ集まった。

 画家の三枝である。絵具のついた指先を気にするように見つめながら、彼はあっさりうなずいた。


「ええ、まあ、投げましたね」


「ほら」

 と田所刑事。

「終わりです」


「でも」

 三枝は続けた。

「顔に当てようとは思ってませんでした。机を狙ったんです。あの人が突然立ち上がったから、結果として顔にいった」


「結果として顔にいった、で済むか!」

 と白根公平。

「しかも高級モンブランだぞ!」


「そこじゃないでしょう」

 と支配人が言った。


 田所刑事は淡々とメモを取る。


「では三枝さん、理由は?」

「理事長が、来月から“サロンの若返り”とか言って、六十歳以上の会員は発言を三分以内に制限するって言い出したからです」

「最悪だな」

 と弁護士の柿崎。

「ここ会員の八割が六十歳超えてるだろ」

「私はまだ五十九だ」

 と里村が言った。

「そこはどうでもいい」

 と田所刑事。


 すべて片づきかけた、そのときだった。


 明智院が、ゆっくりと部屋の中央へ進み出た。


「待ちたまえ」


「またか」

 と田所刑事。


「たしかに三枝氏は投げた。

 だが、それだけでこの事件を説明できるだろうか?」


「できますね」

 と田所刑事。


「いや、できない」

 明智院はきっぱりと言った。

「なぜならこれは――密室事件だからだ!」


「まだ言うのか」

 と白根公平が顔のクリームを拭いながら言った。


 明智院は、開いている扉をびしっと指した。


「見たまえ、この扉」

「開いてます」

 と全員。


「この開き方こそが、不自然だ」


「いや換気です」

 と支配人の荻原。

「今日は厨房で魚を焼きすぎまして」


「では窓は?」

「換気です」

「ガラス戸は?」

「換気です」

「人の出入りは?」

「自由です」


 明智院は腕を組んだ。


「妙だ」


「全然妙じゃない」

 と田所刑事。


 そこへ配膳係の青年が、おずおずと手を挙げた。


「あの……私、見てました」

「何を」

 と田所刑事。


「三枝さんがモンブランを持ち上げて、『こんな会に未来はない!』って言って投げたところを」

「見てるじゃないか、完全に」

 と白根公平。


「しかもそのあと理事長が『うわっ』って自分から前に出てました」

「なんで前に出たの」

 と弁護士の柿崎。

「避ける方向がおかしいでしょう」


 白根公平はむっとした。


「私は会の秩序を守ろうとして――」

「顔で?」

 と里村。


 田所刑事はうなずいた。


「ではますます単純です。三枝さんがモンブランを投げ、理事長が前に出て当たった」


「待ちたまえ!!」


 明智院、三度目である。

 もはや周囲も驚かない。


「その説明には、決定的な欠陥がある」

「何ですか」

 と田所刑事が疲れた声で聞いた。


 明智院は、静かに人差し指を立てた。


「“密室感”が足りない」


 談話室の空気が、少しだけ死んだ。


「それは事件側の責任じゃない」

 と弁護士の柿崎。


「君たちはわかっていない」

 明智院は歩き始めた。

「密室とは、物理的条件ではない。そこに“出入りできたのに、なぜかできなかった気がする”という情緒が宿ったとき、人は初めて密室を感じるのだ」


「この人、推理じゃなくて文芸評論を始めたぞ」

 と里村が言った。


 だが明智院の瞳は真剣だった。無駄に。


「私は問おう。

 なぜ誰も、この部屋に“自由に出入りしていたはずなのに”、事件を防げなかったのか」


「普通にケーキ投げるのが一瞬だったからでしょう」

 と配膳係。


「浅い」

 明智院は言った。

「それは表層だ。もっと深いところに鍵がある」


「鍵ないですよ。この部屋」

 と支配人。


 そこで明智院は、テーブルの上に置かれていた会議資料を一枚手に取った。表紙には大きくこう書かれている。


《白梟倶楽部 若返り改革案》


 彼はそれを見つめ、目を細めた。


「……なるほど」


「何か見つかったんですか」

 と田所刑事。


「まだだ」

「まだなんだ」


 白根公平がいらついた声で言う。


「だいたい何なんだ君は! 犯人は三枝で決まりだろう!」

「物理的にはな」

 と明智院。


「また出た、物理的には」

 と三枝が言った。

「じゃあ精神的には誰なんです?」


 明智院は即答した。


「この部屋だ」


「部屋?」

 と全員。


「そうだ。

 この《月の間》そのものが犯人なのだ」


「ついに場所を逮捕し始めたぞ」

 と田所刑事。


 明智院は続ける。


「考えてみたまえ。

 この部屋は、開いていた。

 誰でも入れた。

 誰でも出られた。

 なのに誰も止められなかった。

 なぜか?

 それはこの部屋が、長年にわたり、人々に“ここでは品位を保たねばならない”という沈黙の圧力を与え続けてきたからだ」


「ちょっと言ってることはわかるのが腹立つな」

 と里村。


「つまり会員たちは理事長の横暴に不満を抱えながらも、この部屋の空気に縛られ、誰も本音を言えなかった。

 そしてその蓄積が、今日ついにモンブランという形で噴出した」


 三枝が少しだけ感心したようにうなずく。


「……まあ、空気は悪かったね」


「だろう?」

 と明智院。


「でも投げたのは俺だよ」

「そこなんだよな」

 と田所刑事。


 明智院は一瞬だけ黙った。

 しかし、すぐに復活した。


「ではこう言い換えよう。

 三枝氏は実行犯だ。

 だが真犯人は――この空間が生み出した構造そのものだ」


「また構造」

 と白根公平。


「そして、この構造は“見えない壁”を作っていた。

 すなわち――この部屋は、精神的密室だったのだ!」


 その瞬間、なぜか支配人の荻原が目を見開いた。


「精神的密室……!」


「乗るな」

 と田所刑事。


 だが荻原はぶるぶる震え始めた。


「たしかに……! 皆さま、長年この部屋では、本音を飲み込んでおられました……! 理事長の前では誰も逆らえず、拍手と苦笑いばかりが響いていた……! この部屋そのものが、閉ざされていたのです!」


「いや開いてたって」

 と田所刑事。


「物理的には!」

 と荻原。

「だが精神的には!」

「なんで増援が来るんだよ」


 ここで、小説家の里村がぽつりと言った。


「でもそう考えると、なんだかちょっと文学的ね」

「文学に寄せるな」

 と弁護士の柿崎。


 田所刑事は深々とため息をついた。


「整理します。

 理事長が空気を悪くした。

 みんな我慢していた。

 三枝さんが限界でモンブランを投げた。

 当たった。

 以上でいいですね?」


「いいえ」


 明智院が言った。


「最後の一つが足りない」


「まだ何かあるのか」

 と白根公平。


 明智院は、倒れたモンブランの皿を見た。

 その縁には、理事長が最初に食べたらしい一口分の跡がある。

 そして、資料の表紙。

 さらに、壁に掛かった《会員は自由闊達たれ》という古びた額縁。

 その下に、小さく貼られた《ただし発言は理事長判断により制限される場合あり》の注意書き。


 明智院の目が、きらりと光った。


「……そうか」


「何が」

 と田所刑事。


 明智院は静かに笑った。

 ようやく、来たのである。

 彼がいちばん言いたかったやつが。


「最後のピースが見つかったね」


「また始まった」

 と田所刑事。


「今回は何をピース扱いしてるんです?」

 と弁護士の柿崎。


 明智院は、注意書きを指さした。


「この倶楽部は、“自由闊達”を掲げながら、実際には理事長の気分一つで自由を制限していた。

 つまり、開かれた部屋を装いながら、実態は閉ざされていた。

 この矛盾こそが最後のピースだ」


「言いたいことはわかる」

 と里村。

「けど事件の犯人は変わらないわよね」


「変わらない」

 と明智院。


「変わらないんだ」

 と田所刑事。


「三枝氏がモンブランを投げた事実は動かない。

 しかし、その一撃を生んだ真の密室性は、理事長がこの部屋に作り上げた空気にあった」


 白根公平が、クリームをぬぐいながらむっとする。


「じゃあ何か。私が悪いと?」

「かなり」

 と三枝。

「わりと」

 と里村。

「相当」

 と柿崎。

「店としても迷惑」

 と支配人。

「プリンの件よりはまだマシですが」

 と田所刑事。


 白根公平は少しだけ押し黙った。

 それから、小さく言った。


「……三分制限は、やりすぎだったかもしれん」


「だいぶね」

 と三枝。


「あと、若返り改革も言い方が悪かった」

「だいぶね」

 と里村。


「しかし!」

 白根公平は言い返した。

「だからといってモンブランを投げていい理由にはならん!」


「それはそう」

 と田所刑事が即答した。


 話が一周して、ようやく地面に着地した。


 田所刑事は手帳を閉じた。


「では、本件は三枝氏による傷害未遂……いや、ケーキによる暴行で処理します」

「“ケーキによる暴行”って記録に残るのか」

 と三枝。


「残ります」

 と田所刑事。


 支配人の荻原が、おそるおそる聞いた。


「では……密室事件では、ないのですね」

「ないです」

 と田所刑事。


 そのとき、明智院が静かに窓辺へ歩いた。

 夕闇の名残を背に、彼は振り向かずに言った。


「……いや」


「まだ言うか」

 と全員。


「密室だったよ」


「どこが」

 と田所刑事。


 明智院は遠くを見るように答えた。


「人の心が」


「もういいです」

 と田所刑事。


 それでも明智院は満足げだった。

 事件そのものより、自分の中で何かがきれいにまとまった顔をしていた。


 その夜、彼の事件ノートにはこう記された。


>『密室ではない部屋』

>扉は開いていた。窓も開いていた。

>だが、最後のピースが示したのは、

>この部屋が閉ざしていたのは出入口ではなく、人の本音だったという事実である。


 それを横から読んだ田所刑事は、静かに言った。


「急にちゃんとしたこと書くの、ずるいんだよな……」

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