第2話 完璧なアリバイの男
事件が起きたのは、午後八時十二分。
港町・浜霧市の老舗フレンチレストラン《ル・シニカル》の個室で、地元の実業家・鷲尾辰造が、銀のデザートフォークで左肩を刺されたのである。
もっとも、刺されたといっても致命傷ではなかった。
鷲尾辰造は椅子からずり落ちながらも元気よく怒鳴っていた。
「痛っっっった!! 何をするんだ雅代!!」
妻の雅代はフォークを持ったまま、怒りで肩を上下させていた。
「あなたが悪いのよ!!」
その場にいた全員が、だいたい状況を理解した。
長男の慎吾が青ざめて立ち上がり、
「母さん!?」
と叫び、
秘書の今村は即座にナプキンで傷口を押さえ、
シェフの小田切は
「うちのフォークで人を刺すのは本当にやめていただきたい」
と、店の品位について率直な懸念を表明した。
そこへ、個室の隅でゆっくり立ち上がる男がいた。
名探偵・明智院金四郎である。
黒い外套。
鋭い眼差し。
重々しい沈黙。
そして、すでに何か言いたくてたまらない顔。
明智院は床に落ちたフォークを見つめ、低く言った。
「……なるほど」
「何がですか」
と秘書の今村が聞いた。
「事件の輪郭が見えてきた」
「刺された時点で輪郭はかなり見えてます」
と慎吾が言った。
十分後、田所刑事が到着した。
現場を見るなり手帳を開き、簡潔に言う。
「被害者、意識あり。加害者の自白は?」
雅代が腕を組んだまま答えた。
「私です」
「動機は?」
「この人がプリンをひと口食べて、『これならコンビニのほうが勝ってる』って言ったからです」
シェフの小田切がぎりっと歯を鳴らした。
「私もかなり危なかったです」
「危ない店だな」
と田所刑事が言った。
慎吾は頭を抱えた。
「父さん、なんでそんな刺されるようなこと言うんだよ……」
「率直な感想を言っただけだ!」
と鷲尾辰造。
「食に甘えは不要だ!」
「甘えが不要なのはあなたの舌より性格のほうよ!」
と雅代。
田所刑事は手帳を閉じた。
「では、概ね事情は――」
「待ちたまえ!!」
もちろん、明智院である。
個室の全員が、うっすらと天井を見た。
来たな、という感じだった。
「まだ終わっていない」
明智院は静かに言った。
「むしろ、ここからだ」
「いや、かなり終わりに近いですよ」
と今村秘書が言った。
「刺した人も、刺された理由も出ています」
明智院はふっと目を細めた。
「それが罠だ」
「誰の」
と慎吾。
「まだわからない」
「わからないんかい」
と鷲尾辰造が怒鳴った。
「こっちは刺されてるんだぞ!」
明智院はそれを受け流し、テーブルの上の出席者リストを手に取った。
「今夜、この会食には本来もう一人、来るはずだった人物がいる」
今村秘書がうなずく。
「元共同経営者の南雲徹也氏です。ですが彼は欠席しました」
「理由は?」
と明智院。
「ハワイ旅行です」
「ハワイ……」
明智院の目が、きらりと光った。
田所刑事が嫌な顔をした。
「その目はやめてください」
「何?」
「ろくでもない推理を始める目です」
今村は淡々と続ける。
「南雲氏には完璧なアリバイがあります。事件当時、彼はホノルルのホテルにいました。ホテルの防犯カメラ、現地スタッフ、ツアー客の写真、さらにSNSのライブ配信もあります」
「ライブ配信?」
と明智院。
「はい。ワイキキビーチを背景に『最高でーす!』と言っていました」
明智院は黙った。
そしてゆっくり顎に手を当てた。
「……完璧すぎる」
「完璧ですね」
と田所刑事。
「だからアリバイって言うんです」
「完璧すぎるアリバイほど怪しいものはない」
「始まった」
とシェフが言った。
慎吾が両手で顔を覆う。
「嫌な予感しかしない……」
明智院は窓辺に移動し、夜景を背に一同を振り返った。
「諸君。私はこの事件を、単なる夫婦喧嘩の延長と見るつもりはない」
「延長じゃないわ。積み重ねよ」
と雅代が言った。
「三十年分の」
「たしかに雅代夫人は刺した」
明智院は重々しく言った。
「だが、それだけでこの事件のすべてが説明できるだろうか?」
「できます」
と田所刑事が即答した。
「いや、できない」
明智院は言った。
「なぜなら、この事件には“完璧なアリバイの男”が存在しているからだ」
「それ、ただハワイで遊んでる人のことですよね」
と慎吾。
「諸君」
明智院は歩き始めた。
「人は時に、現場にいなくても現場を支配できる」
「どうやって」
と今村。
「そこだ」
明智院は指を立てた。
「問題はそこなのだ」
「わかってないじゃないですか」
とシェフ。
だが明智院は止まらない。
彼は個室の中央に立ち、ひとりひとりの顔を見渡した。
「まず確認しよう。南雲徹也氏は、今この場にはいない」
「いません」
と田所刑事。
「ハワイです」
「だが、もし彼をこの場に“呼び出す”ことができるとしたら?」
「え?」
と慎吾。
「今村君」
明智院が言った。
「南雲氏に連絡は取れるか」
「取れますが」
「ビデオ通話でつないでほしい」
個室の全員が、一瞬だけ黙った。
「なんでです?」
と田所刑事。
「必要だからだ」
明智院は言った。
「真実のために」
「この人の“真実”ってだいたい遠回りなんだよな」
とシェフが小さく言った。
数分後。
今村秘書がスマホをテーブルの中央に立てかけると、画面いっぱいに、南国の夜風に吹かれる男の顔が映った。
『もしもしー? なんか事件って聞いたけど大丈夫?』
南雲徹也である。
アロハシャツ姿で、首にはレイ、手には色のついた飲み物。背景にはプールとヤシの木、そして妙に楽しそうな観光客たち。
「南雲さん」
と今村。
「今どちらに?」
『ハワイですけど』
「本当に?」
と明智院が詰め寄る。
『えっ』
「本当にハワイか?」
『本当にハワイです』
「証明できるか?」
『いや今もう、後ろ全部ハワイですけど』
南雲がスマホを回す。
プール。ヤシの木。花火。ウクレレっぽい音。
どう見てもハワイだった。
「楽しそうだな」
と慎吾が言った。
『楽しいですねえ』
明智院は静かに目を閉じた。
そして次の瞬間、ばっと目を開いた。
「諸君――」
びしりと、個室の面々を指さす。
さらに、その中央に置かれたスマホの画面も含めて、大きく円を描くように指を振る。
「犯人は、この中にいる!!」
沈黙。
田所刑事がゆっくり聞き返した。
「……この中?」
「そうだ」
明智院はうなずく。
「この個室にいる者たち。そして、画面の中の男。
いま、真実はこの輪の中にそろった」
「いやそれずるくない?」
と慎吾が言った。
「“この中”にスマホ画面まで入れ始めたら何でもありだろ」
「何でもありではない」
と明智院。
「推理には柔軟性が必要だ」
「柔軟性の言い換えで雑さを通すな」
と田所刑事。
南雲が画面の向こうで眉をひそめた。
『えっと……僕、犯人扱いされてます?』
「されている」
と明智院。
『なんで?』
「完璧すぎるからだ」
『旅行が?』
「アリバイがだ」
『旅行でアリバイ完璧になっただけなんですけど』
明智院はスマホの前にしゃがみこんだ。
「南雲徹也。君は現場にいないことで、かえって現場に強い影響を与えたのではないか?」
『いや、与えてませんけど』
「本当に?」
『本当にです。ていうか今、ガーリックシュリンプ待ちなんで』
「ガーリックシュリンプ……」
と明智院。
「完全に無関係の人の語彙なんだよな」
とシェフ。
明智院は立ち上がり、窓のほうを向いた。
「だが考えてみたまえ。
南雲氏は今日、この会食に招かれていた。
にもかかわらず欠席した。
そこに何らかの意図があったのではないか?」
「ありましたよ」
と南雲が画面の向こうで即答した。
『ハワイ行きたかったんで』
「それだけか?」
『それだけです』
「鷲尾辰造氏との対立は?」
『昔はありました。でも今は別に』
「恨みは?」
『ゼロではないですけど、ハワイ優先しました』
「ハワイ優先しただけですね」
と田所刑事。
だが明智院は首を振る。
「いいや。そこだ。
ハワイを優先するというその選択――それ自体が、君の冷徹さを物語っている」
『旅行で冷徹扱いされるの初めてなんですけど』
と南雲。
ここで雅代が深くため息をついた。
「ちょっといいかしら」
「何です」
と田所刑事。
「私が刺したの。
理由はプリン。
それで終わりでいいじゃない」
「たしかに」
と慎吾。
「なんで話がハワイまで広がってるんだ」
明智院は雅代を見た。
「雅代夫人。あなたは確かに刺した。
だが、それは本当にあなた自身の意志だったのか?」
「何それ」
と雅代。
「もし、長年の鬱積の背後に、南雲氏の存在が見え隠れしていたとしたら?」
「見え隠れしてないわよ」
「昔の確執が、無意識にこの場の空気を歪め――」
「歪めてないです」
と南雲。
『ていうか僕、今日いませんし』
「それなんだよな」
と田所刑事。
慎吾が半ばあきれながら聞く。
「じゃあ結局、南雲さんは犯人じゃないんだろ?」
「物理的にはな」
と明智院。
「また出た、物理的には」
とシェフ。
「だが私はあえて言おう」
明智院は静かに胸を張った。
「犯人は、この中にいる!」
「だからいるなら誰なんです?」
と田所刑事。
明智院は、一拍置いた。
この間だけは本当にうまい。
「“この場を事件にした者”という意味でなら――全員だ」
「最悪の着地だな」
と慎吾が言った。
「君たち全員が、鷲尾辰造という男を甘やかし、見過ごし、プリンへの無礼を許してきた。
その結果として、今夜のフォークが生まれた。
つまり、犯人はこの中にいる。
君たち全員の中に」
「雑に広げたなあ」
と田所刑事。
雅代が腕を組む。
「でも刺したのは私よ」
「そこなんです」
と田所刑事。
「結論がずっとそこから動いてないんです」
そのとき、スマホの向こうで南雲がぽつりと言った。
『あの……』
「何です」
と今村。
『僕、そろそろガーリックシュリンプ来るんで切っていいですか?』
「切っていいと思います」
と田所刑事。
「あなた本当に無関係なので」
南雲は少し気まずそうに笑った。
『じゃあ最後に一つだけ。雅代さんがやったなら、まあそうだろうなって感じです』
「失礼ね!!」
と雅代。
『いやでも昔から怒ると怖かったし』
「余計なお世話よ!」
通話が切れた。
個室に、なんとも言えない静けさが落ちた。
事件は最初からほぼ終わっていたのに、遠回りだけが立派だった。
田所刑事は深々とため息をついた。
「では、整理します。
雅代夫人がフォークで刺した。
動機はプリンへの侮辱。
南雲氏はハワイ。
以上でいいですね?」
「いいと思います」
と慎吾。
「店としてもそれで」
とシェフ。
「私もそれでいいわ」
と雅代。
全員が着地したところで、明智院だけがまだ窓の外を見ていた。
「……最後のピースが見つかったね」
彼は静かに言った。
「今回は何をピース扱いしてるんです?」
と田所刑事。
「アロハシャツだ」
「最悪だな」
「南雲氏があまりにもハワイらしい格好をしていたことで、逆に彼が本当に無関係だと確信できた。
つまりこの事件において、“完璧なアリバイの男”とは、真相を隠す霧ではなく、真相の単純さを照らし出す照明だったのだ」
「急にちょっとだけまともなこと言うのやめてください」
と田所刑事。
「では結局、犯人は誰だったんです?」
と慎吾。
明智院はゆっくり振り返り、雅代を見た。
「雅代夫人だ」
「そこは最初からそうだろ」
と全員が言った。
明智院は咳払いした。
「だが私は、その“そうとしか見えない真実”の背後に、さらに大きな構造を見ていた」
「見てた結果、ハワイの人に迷惑かけただけでしょう」
とシェフ。
「そうとも言う」
と明智院は言った。
田所刑事は雅代に同行を求めながら、小さく呟いた。
「今回の明智院さん、結局“犯人はこの中にいる!”を言うためにスマホ画面まで部屋に含めましたね」
「推理には拡張性が必要だ」
と明智院。
「拡張性じゃなくて苦し紛れなんだよなあ」
その夜、明智院金四郎の事件ノートにはこう記された。
『完璧なアリバイの男』
犯人はこの中にいた。
ただし、その“この中”を少し拡張する必要があった。
ときに真実とは、現場の四角い枠を越え、
一台のスマートフォンの画面の中にまで入り込むものだ。
それを横から読んだ田所刑事は、静かに言った。
「入り込んでねえんだよなあ……」




