【中巻】荒野四十年と、約束の地への遠すぎる道のり
旧約聖書 ―― 俺たちの神との約束がこんなにハードモードなわけがない
【中巻】荒野四十年と、約束の地への遠すぎる道のり
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プロローグ ~ 旅の出発点 ~
前巻のあらすじを三行で。
神が世界を作った。人間はすぐ失敗した。ヘブライ人はエジプトで奴隷になった。
モーセという男が神に呼ばれて百万人規模の民族を解放した。海が真っ二つに割れた。砂漠に出た。
以上だ。
そして今、数百万人のヘブライ人が荒野のど真ん中にいる。
前には砂漠。後ろにはエジプト。目指す約束の地カナンまでは、直線距離にしてせいぜい数百キロだ。現代なら車で数時間。歩いてもがんばれば二週間あれば着く。
では、なぜ彼らはここから四十年かかるのか。
その答えは、この中巻を読み終えた頃に自然とわかるだろう。
ヒントだけ言っておくと――問題は「距離」ではなく「人間」にある。
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第一章 ~ 荒野の文句大会、開幕 ~
シナイ山のふもとを出発して三日目のことだった。
「水が苦くて飲めない!」
先頭を歩いていた民の一人が叫んだ。たちまち声が広がった。
「水がない!」「喉が渇いた!」「モーセのせいだ!」
三日。たった三日だ。
出発前、モーセは民に何度も何度も言い聞かせていた。「神がともにいる。恐れるな」と。
その言葉が三日で吹き飛んだ。
神はモーセに一本の木を示し、苦い水に投げ込ませた。水は甘くなった。
問題解決。
三日後にはまた別の文句が出た。今度は食べ物だ。
「エジプトでは魚をただで食べていた! きゅうりも! すいかも! ねぎも! 玉ねぎも! にんにくも! なのに今は目の前にマナしかない!」
マナというのは、毎朝地面に降りてくる白い食べ物のことだ。蜂蜜入りのウェハースのような味がする。神が毎朝用意してくれる、言わば空から降ってくるお弁当だ。
それを「しかない」と言う。
モーセはこの時点でかなり限界に近かったらしい。
神に直接こう訴えている。
「なぜこんな民の重荷をわたしに負わせるのですか。わたしがこの民を妊んだのですか。わたしが生んだのですか。一人で全員の面倒など見られません。こんな扱いが続くなら、いっそわたしを殺してください。みじめさを見ていたくない」
神は優しく答えた。「長老七十人を選んで重荷を分けなさい」
そして肉も用意することにした。ただし、神はひとこと付け加えた。
「一ヶ月間、肉を食わせてやる。耳からあふれ出て嫌になるほど食わせてやる。肉を求めてわたしを侮ったことへの答えとして」
どこか怖い。
翌日、海の方から風が吹いてきた。うずらが大量に運ばれ、宿営の周り一帯に降り積もった。地面から一メートルの高さで山になるほどだ。
民は夢中でうずらを集めた。食べ始めた。
その瞬間、神の怒りが燃え上がり、疫病が起きた。
「肉が歯の間にある間に」と聖書は記している。
その場所は「欲望の墓」と名付けられた。
文句を言って要求を通しても、ろくなことにならない。
これが荒野の基本ルールだ。
だが民はこのルールを、この後も四十年かけて何度も学び直すことになる。
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第二章 ~ 偵察隊の報告 ~ 希望と絶望の分かれ目 ~
そうこうするうちに、ついにカナンの地が近づいてきた。
神はモーセに言った。「各部族から一人ずつ偵察隊を出せ」
十二人の精鋭が四十日間、カナンの地を隅々まで歩いて調べ、帰ってきた。
荷物は重そうだった。一番目を引いたのは、二人で棒に担いでいる葡萄の房だ。一房が二人がかりで運ぶほど大きい。それだけ豊かな土地ということだ。
「報告します」
十二人の代表者が前に出た。
「その地はすばらしいです。乳と蜜が流れています。果物もこの通り豊かです」
民がざわめいた。期待の声が上がる。
「ただし――」
全員が静まった。
「住民は強大です。町は城壁に囲まれた要塞です。それも非常に大きい。さらに、アナクの子孫もいました」
アナクの子孫とは、伝説的な巨人族のことだ。
「自分たちはいなごのように小さく見えました。相手から見れば、我々もそう見えたでしょう」
沈黙が落ちた。
次の瞬間、宿営が揺れるほどの叫び声が上がった。
「エジプトで死んでいればよかった!」
「この荒野で死ぬほうがましだ!」
「カナンに攻め込んで剣で殺される前に! 女子供が奪われる前に! エジプトに帰ろう!!」
新しいリーダーを選んでエジプトに帰ろう、という声まで上がった。
四百年以上苦しめられた奴隷の地に、今すぐ戻ろうという話だ。
十二人の偵察隊のうち、二人が前に出た。
カレブとヨシュアだ。
カレブが叫んだ。
「落ち着け! その地は確かに良い地だ! 神がともにいるなら必ず入れる! 彼らは我々の食い物だ! 恐れるな!」
民の反応は――「その二人を石で打て!」だった。
沈黙。
そこに神が現れた。
「この民はいつまでわたしを侮るのか」
神の声に、宿営全体が静まり返った。
「疫病で打ち滅ぼし、あなた(モーセ)から新しい民を起こそうか」
モーセはすかさず神に食い下がった。
「神よ、お待ちください。エジプト人がそれを聞いたら何と言いますか。『あの神は約束の地に連れていく力がなかった。だから荒野で殺した』と言いますよ。神の名誉のためにも、どうか赦してください」
神はため息をつくように言った。
「……赦そう」
しかし条件がついた。
「この世代の者たちは、わたしが誓った地を見ない。偵察に四十日かけたから、四十年間荒野を旅させる。今いる二十歳以上の全員が荒野で死ぬまで」
静寂。
「カレブとヨシュアは別だ。この二人だけが入る」
「大丈夫、行けます」と言った二人だけが、四十年後にカナンに入ることになった。
「無理だ、死ぬ」と言った者は、本当に荒野で死んだ。
言葉は現実を作る。旧約聖書が繰り返し示すテーマのひとつだ。
なお、「無理だ」と言った偵察隊の十人は、その場で疫病で死んだ。
翌朝、民は言った。
「やっぱりカナンに攻め込む! 神に逆らったのは間違いだった!」
モーセが止めた。「もう神はともにいない。行くな。負ける」
民は聞かなかった。
完全に負けた。
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第三章 ~ 荒野のトラブルいろいろ ~
四十年の旅の中で、様々な事件が起きた。
代表的なものをいくつか紹介しよう。
◆ 反乱が起きた件
コラという男がいた。
彼はレビ族の中でそれなりの地位にある人物で、二百五十人の有力者を引き連れ、モーセとアロン兄弟の前に立ちはだかった。
「あなたたちは行き過ぎだ! 会衆は全員、神に選ばれた聖なる者だ! なぜあなたたち兄弟だけが上に立つのか!」
要するに「俺たちも同じはずなのに、なんであいつらだけが指導者なんだ」という話だ。
現代の職場でもよくある光景である。
モーセはひれ伏して頭を垂れ、翌朝神の裁きを待つように告げた。
翌朝、答えが出た。
コラとその仲間が立っている地面が、突然口を開けた。
彼らは生きたまま飲み込まれた。地面が閉じた。
別の二百五十人には天から火が降り注いだ。
一瞬の出来事だった。
民は震え上がった。
……と思いきや、翌日にはまた言いに来た。
「モーセとアロンが神の民を殺した!」
神の怒りが燃え上がり、疫病が始まった。
「大変だ! 香炉を持ってこい! 宥めの儀式をしないと全滅する!」
アロンが急いで民の中に走り込み、儀式を行った。
すでに一万四七〇〇人が死んでいた。
……コラが死んだ翌日に同じことをしている。
学習能力というものが、この集団には少し足りない。
◆ 岩を叩いた件
カデシュという場所に着くと、水がなかった。
毎度おなじみのパターンだ。
「なぜ荒野に連れてきた! 穀物もない、いちじくもない、ぶどうもない、ざくろもない、水もない!」
神はモーセに言った。「岩に向かって話しかけなさい。水が出る」
モーセは民を集めた。
長年の疲れと苛立ちが、その顔に滲んでいた。
「聞け、反逆者ども! この岩から水を出してやろうか!」
そして杖で岩を二回、力任せに叩いた。
水はどっと出た。民も家畜も飲んだ。
しかし後で、神がモーセに静かに言った。
「あなたは、わたしを信じなかった。岩に話しかけなさいと言ったのに、叩いた。だからあなたはカナンの地に民を連れ込むことはできない」
四十年間、民のために尽くしてきたモーセ。
怒りにまかせて岩を叩いたのは、ほんの一瞬のことだった。
それでも、神は厳しかった。
旧約の神は「愛の神」であると同時に、「妥協しない神」だ。
モーセはこの判決を黙って受け入れた。
◆ 毒蛇が来た件
しばらく行くと、またいつもの台詞が出た。
「なぜ荒野に連れ出した! パンも水もない! このみじめな食べ物に飽き飽きした!」
神が毒蛇を遣わした。
蛇は民を噛み、多くが死んだ。
「……助けてください。神とあなたに背いて罪を犯しました。蛇を取り除いてください」
モーセが神に祈ると、神は言った。
「銅で蛇を作り、旗竿の先に掲げなさい。噛まれた者がそれを見上げれば、死なない」
モーセが銅の蛇を作って掲げると、蛇に噛まれた者がそれを見上げ、生き延びた。
見上げるだけでいい。それだけで助かる。
単純な行動を信じてやる者は生き、「そんなことで治るわけがない」と背を向けた者は死んだ。
信仰とは何か、という問いが静かに込められた場面だ。
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第四章 ~ バラムのロバが喋った件 ~
少し変わった話が挟まる。
モアブという国の王、バラクは困っていた。
百万人規模のヘブライ人の大集団がじりじりと近づいてきているのだ。
「あの集団に正面から勝てる気がしない。誰か呪ってくれる人はいないか」
そこで白羽の矢が立ったのが、バラムという占い師だ。
彼は「呪うと本当に効く」と評判の男で、報酬さえ払えば仕事を引き受ける。
バラクの使者がやってきた。
「ヘブライ人を呪ってくれ。たっぷり払う」
バラムは神にお伺いを立てた。
神は言った。「行ってはならない。彼らを呪うな。彼らは祝福されている」
バラムは断った。
バラクはもっと豪華な使節団を送ってきた。「いくらでも払う。もっといい条件にする」
バラムはまた神に聞いた。
今度は神は「行ってもいい。ただし、わたしが言う言葉だけを言え」と言った。
バラムは翌朝、ロバに乗って出発した。
しかし神の使いが、剣を抜いて道をふさいで立った。
バラムには見えない。ロバには見えた。
ロバが道をそれた。バラムは叩いた。
今度は狭い畑道で使いが立った。ロバが壁に寄って、バラムの足が壁に挟まった。バラムは叩いた。
今度は全く通れない場所に使いが立った。ロバはその場でうずくまった。バラムはまた叩いた。
その瞬間、ロバが口を開いた。
「わたしがあなたに何をしたというのですか。もう三回も叩いて」
バラムは全く動じずに答えた。
「馬鹿にしたからだ。剣があれば今すぐ切り捨てる」
ロバが言った。「わたしはずっとあなたの乗り物です。今まで一度でもこんなことをしましたか」
「……確かにそれはない」
この時点でバラムは少しもおかしいと思っていない。ロバと普通に口論している。
そこで神がバラムの目を開かせた。使いが剣を持って立っているのが見えた。
使いが言った。「ロバが三回避けなければ、お前はすでに死んでいた。ロバが正しかった」
バラムはひれ伏した。
「罪を犯しました」
「行け。ただし言われた言葉だけを言え」
バラクのもとに着いたバラム。
祭壇を築き、儀式を整え、ヘブライ人の宿営を見渡して、口を開いた。
「なんと美しい天幕よ、ヤコブの民! 神はイスラエルを祝福される……」
「ちょっと待て!! 呪えと言ったのに祝福してるじゃないか!」
バラクが飛び上がった。
「申し訳ありません。神がそう言わせたんです」
「場所を変えてもう一度!」
別の場所に連れていかれた。また口を開いた。
「神はイスラエルを祝福し……」
「なんでまた祝福するんだ!!」
「だから神がそう言わせるんです」
「もう一か所だけ! 今度こそ呪ってくれ!」
三回目。またしても祝福の言葉が出てきた。
バラクは怒り狂った。
「呪ってくれと言ったのに、三回も祝福した! さっさと帰れ! 報酬なし!」
バラムは言った。
「あなたがたとえ銀と金でいっぱいの家をくれても、神の言葉に逆らうことはできません」
そしてトボトボと帰っていった。
占い師を雇って大失敗したバラク。
喋るロバに説教されたバラム。
旧約聖書は時々こういうシュールな話を普通のトーンで挟んでくる。
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第五章 ~ モーセ、最後の語り ~
四十年が過ぎた。
カナンの入り口まで来た。
モーセは百二十歳になっていた。
岩を叩いたことで、彼はカナンに入れない。それはずっと前に決まっていた。
だからモーセは語り始めた。
旅の始まりから今日までを振り返り、神の教えをもう一度整理して、この民に手渡す。
それが申命記だ。申命とは「命令を繰り返す」という意味で、四十年の旅路で学んだことをまとめた言わば「モーセの遺書」だ。
モーセは語った。
「神があなたたちを愛し、選んだのは、他の民族より数が多かったからではない。あなたたちは最も少ない民だった。ただ神があなたたちを愛し、先祖への約束を守ったのだ」
モーセは語った。
「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい」
これが旧約最大の戒め、「シェマ」と呼ばれる言葉だ。ユダヤ教の礼拝で今も毎日唱えられる。後にイエスも「律法の中で最大の戒めは」と聞かれたとき、この言葉を引いて答えている。
モーセは語った。
「わたしは今日、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。命を選びなさい」
語り続けたモーセに、神が言った。
「ネボ山に上りなさい。カナンの地を眺めなさい。そしてあなたは死ぬ」
モーセはネボ山に登った。
神は山の頂から、カナン全土をモーセに見せた。
「これがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った地だ。あなたの目に見せた。しかし渡ることはできない」
モーセはそこで死んだ。百二十歳。目は衰えず、気力もなえていなかった。
神はモアブの地のある谷にモーセを葬った。
誰もその墓の場所を知らない。
申命記の最後にはこう書かれている。
「イスラエルには、モーセのような預言者はその後現れなかった。神が顔と顔を合わせて語り合った者は、モーセをおいて他にいない」
四十年間、民に怒鳴られ続け、神と民の間で板挟みになり続けた男。
約束の地を目で見て、踏み込めずに死んだ男。
旧約聖書で最も人間らしく、最も偉大な指導者が、ここで幕を引く。
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第六章 ~ ヨシュア、カナンへ踏み込む ~
モーセの後継者はヨシュアだ。
四十年前の偵察隊で、「神についていこう」と言った男だ。あの時、石を投げつけようとする民の前で、それを言い続けた男だ。
神はヨシュアに最初の言葉をかけた。
「強く、雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたがどこへ行っても、あなたの神がともにいる」
ヨシュアは民に告げた。
「三日後に渡河する。準備をせよ」
まずは偵察として二人の男を、カナン最大の要塞都市エリコに送り込んだ。
二人は町に入り、ラハブという女性の家に宿を取った。
その夜、エリコの王のもとに密告が入った。
「ヘブライ人のスパイが来ている」
王の使者がラハブの家に来た。
「この家にスパイが入ったと聞いた。出せ」
ラハブは落ち着いた顔で言った。
「確かに男たちが来ましたよ。でもどこから来たかなんて知りません。夜が暗くなって門が閉まる前に出て行きました。急いで追いかければ追いつくんじゃないですか」
嘘だ。二人は屋根の上に隠してある。
使者が去ると、ラハブは屋根に上がってスパイたちに言った。
「正直に言います。ここの住人はみんなあなたたちを怖がっています。紅海を割った話も、荒野で戦に勝った話も、全部聞いています。あなたたちの神こそ、本物の神だとわかっています。だから約束してください。あなたたちが来るとき、わたしの父と母、兄弟姉妹とその家族を守ってください」
スパイたちは言った。
「命がけで誓います。ただし、この窓から赤い綱を結んでおいてください。家族全員をここに集めておいてください。その家の者は必ず守ります」
ラハブは窓から綱を垂らして二人を逃がした。
そして赤い綱を窓に結んだまま、その日が来るのを待った。
このラハブという女性は外国人だ。ヘブライ人でもない。それでも神を信じ、スパイを守り、やがてイスラエルの民の一員になる。
後世の系譜を調べると、彼女の子孫の中にダビデ王が、そしてさらに後の時代に、ある重要な人物の名前が出てくる。しかしそれは新約の話だ。
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第七章 ~ ヨルダン川を渡る ~
三日後、ヨシュアはヨルダン川の前に全員を集めた。
「神の契約の箱を担いだ祭司たちが先に川に入れ」
今は麦刈りの季節で、ヨルダン川は増水していた。岸いっぱいまで水が溢れている。
祭司たちの足が川に触れた瞬間、上流から流れてきていた水が止まった。
ぴたりと。
民は乾いた川底を歩いて渡った。
百万人規模の民族が、川を歩いて渡りきるまで、祭司たちは川の中に立ち続けた。
全員が渡りきった後、祭司たちが上がると水が戻ってきた。
川は元の勢いで流れ始めた。
ヨシュアは各部族の代表に命じて、川底から十二個の石を運ばせ、川を渡ったところに積み上げさせた。
「将来、子どもたちが『この石は何ですか』と聞いたとき、答えなさい。ヨルダン川が止まって渡ることができた、その記念だと」
歴史を物語として語り継ぐ。それが聖書の文化だ。
こうして四十年越しに、ヘブライ人の民はカナンの地に足を踏み入れた。
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第八章 ~ エリコの城壁が崩れた日 ~
最初の敵はエリコだ。
堅固な城壁に囲まれた要塞都市。攻め落とすには普通なら長い包囲戦か、巨大な攻城兵器が必要になる。
ヨシュアが神から受け取った作戦はこうだった。
「六日間、全軍でエリコの周りを一周しなさい。七人の祭司が角笛を持って、契約の箱の前を行きなさい。七日目は七回まわりなさい。祭司が角笛を長く吹き鳴らした時、民は大声で叫びなさい。城壁は崩れ落ちる」
……歩くだけだ。
ヨシュアは作戦を民に伝えた。そして付け加えた。
「叫ぶまで声を出してはならない。わたしが叫べと言うまで、一言も口にするな」
一日目。全軍がエリコの周りを粛々と一周して、宿営に帰った。
エリコの城壁の上から、兵士たちが見ていた。
「……何をしているんだ、あいつら」
「さあ。とりあえず歩いて帰った」
二日目。また一周して帰った。
三日目。また一周。
四日目。また一周。
五日目。また一周。
六日目。また一周。
エリコの兵士たちの困惑は、どれほどのものだったか。
七日目。夜明けとともに出発して、七回まわった。
七回目を終えたとき、祭司たちが角笛を長く吹き鳴らした。
ヨシュアが叫んだ。
「叫べ! 神がこの町を我々に与えてくださった!」
民が叫んだ。
地鳴りのような声が城壁を包んだ。
城壁が崩れ落ちた。
全軍が一斉に突入した。
ただし一か所だけ崩れなかった場所がある。
赤い綱が結んであった窓のある家の部分だ。
ラハブと彼女の家族は、約束通り守られた。
エリコは制圧された。
「歌って歩いていたら城壁が崩れた」という話は一見ファンタジーに聞こえる。
しかし考えてみてほしい。六日間、何万人もの軍が毎日自分たちの城を無言でぐるぐる歩いている。それを見せられる城の中の兵士の心理は、どんなものか。
何をしてくるかわからない恐怖というのは、時に城壁よりも強固な防衛を突き崩す。
エリコが落ちた後、ヨシュアはカナン征服を続けた。
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第九章 ~ 太陽が止まった日 ~
征服が続くある日、五人の王の連合軍がイスラエルに攻めかかってきた。
数で言えば不利だ。
戦いの中でヨシュアは神に向かって、民の前で叫んだ。
「太陽よ、ギブオンの上に止まれ! 月よ、アヤロンの谷の上に止まれ!」
太陽は止まった。
日が暮れなかった。戦いを続けることができた。
聖書はこう記している。
「太陽は約一日、急いで沈まなかった。神がイスラエルのために戦っていたから」
これを読んで「ありえない」と思う人もいるだろう。地球の自転が止まったのか、と。
様々な解釈がある。大気の屈折現象だという説もある。詩的な表現だという解釈もある。
どう受け取るかは読む人次第だが、少なくとも戦いの結果は確かだ。
五人の王は完全に敗れた。
このエピソードの後、ヨシュアは老いてもなお戦い続け、カナンの大部分を制圧した。
そして百十歳で死んだ。
最後に民に言い残した言葉がある。
「あなたたちは誰に仕えるかを、今日選びなさい。神々なのか、それともあなたたちの神なのか。わたしの家は神に仕える」
「わたしたちも神に仕えます!」と民は答えた。
「あなたたちは証人だ」
「証人です!」
「では家の中の異国の神々を取り除きなさい」
「神に仕えます! 命令に聞き従います!」
ヨシュアは最後に静かに言った。
「あなたたちは神に仕えることができない。神は聖なる神で、ねたむ神だ。あなたたちの背きを赦さない。もし背けば、良くしてくださったことのすべての後で、あなたたちを滅ぼす」
「いいえ、仕えます!」
「……証人だ。あなたたち自身が」
「証人です!」
この押し問答の後まもなく、ヨシュアは死んだ。
そしてその言葉通りのことが起きていく。
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第十章 ~ 士師記 ~ 同じことを繰り返す民 ~
ヨシュアが死んだ後、イスラエルは各部族がそれぞれの土地に散らばって暮らし始めた。
しばらくは良かった。
問題は、ヨシュアを知らない世代が育ってきた時に起きた。
カナンに昔から住んでいた人々は、バアルやアシェラという神々を拝んでいた。
「神? バアルのことか? ああ、バアルなら拝んどるよ」
ヘブライ人の若者たちは、気がつけば隣のカナン人たちと同じものを拝むようになっていた。
神の怒りが燃え上がった。
周辺の民族がイスラエルに攻め込んできた。負けた。支配された。苦しんだ。
苦しくなって神に叫んだ。
神が士師を立てた。
士師というのは、軍事指導者であり民の裁判官でもある、特別な指導者のことだ。
士師が来ると状況が変わった。敵を追い払った。平和になった。
しばらくして士師が死んだ。
またバアルを拝み始めた。
また敵が攻めてきた。
また苦しんだ。
また神に叫んだ。
また士師が現れた。
この「堕落→苦難→叫び→救出→平和→堕落」の繰り返しが、士師記を貫くリズムだ。
士師記はこの繰り返しを、読者に飽き飽きするほど見せる。
意図的に。
「人間というのはこういうものだ」と言いたいのだ。
楽になると忘れる。苦しくなると思い出す。
神に叫ぶ。助けてもらう。また忘れる。
二千年以上前に書かれたこのサイクルが、今の時代を生きる私たちにも笑えないほどリアルに見えるのは、なぜだろうか。
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第十一章 ~ デボラ ~ 女が戦争に勝つ話 ~
士師記に登場する人物の中で、まず紹介したいのがデボラだ。
彼女は預言者であり、士師でもある女性だ。ヤシの木の下に座って、毎日民の訴えを聞いて裁いていた。
その頃、カナンの王のもとで鉄の戦車九百台を指揮する将軍シセラが、イスラエルを二十年間苦しめていた。
鉄の戦車九百台というのは、当時の最新鋭兵器で固めた軍団だ。対抗するのは並大抵のことではない。
デボラは軍の指揮官バラクを呼んで言った。
「神があなたに命じている。一万人の兵を率いてタボル山へ行きなさい。シセラを引き寄せ、打ち破りなさい」
バラクは少し困った顔をした。
「あなたが一緒に行ってくれるなら行きます。行かないなら行きません」
デボラはため息をついた(かどうかは聖書に書いていないが、たぶんついた)。
「わかりました、一緒に行きます。ただし、この戦いの手柄はあなたのものにならない。神はシセラを女の手に渡します」
バラクはそれでも「一緒に来てくれ」と言った。
デボラは一緒に行った。
戦いは大勝利だった。シセラの軍は壊滅した。
シセラ本人は戦車を捨てて逃げた。
ケニ人ヘベルの天幕に逃げ込んだ。ヘベルはシセラと友好関係にある一族だ。ヘベルの妻ヤエルが出てきて言った。
「どうぞ、ご主人様。ここに来て、怖くありません」
シセラは天幕に入った。
「のどが渇いた。水を少し飲ませてくれ」
ヤエルはミルクを出して飲ませた。毛布をかけてやった。
「入り口に立っていてくれ。誰か来たら、ここに男はいないと言ってくれ」
「わかりました」
シセラは安心して眠った。
ヤエルは天幕の杭を取り、槌を手に取り、眠るシセラのこめかみに打ち込んだ。
地面に刺さるまで。
バラクが追いかけて来ると、ヤエルが出てきて言った。
「探している人ならここにいます」
デボラの予言通りになった。
戦いの手柄は女が取った。
デボラとバラクはこの後に歌を歌う。これが「デボラの歌」で、旧約聖書の中でも最も古い詩の一つだと言われている。
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第十二章 ~ ギデオン ~ 神に確認を求め続けた男 ~
ミデアン人が七年間イスラエルを苦しめていた時代のことだ。
ミデアン人は毎年、イスラエルの麦が育つと大勢でやってきて根こそぎ奪っていく。イスラエルは山の岩穴に隠れて暮らすほかなかった。
そんなある日、神の使いが現れた。
場所は少し変わっている。ぶどう搾り場の中だ。
そこで男が麦を打っていた。
ぶどう搾り場で麦を打つのはおかしい。本来麦は、風で籾殻が飛ぶように丘の上で打つものだ。
でも丘の上でやっていたらミデアン人に見つかって全部取られる。だからぶどう搾り場の中に隠れてやっていた。
使いはその男に声をかけた。
「神はあなたとともにおられる。力ある勇士よ」
男、ギデオンは複雑な顔をした。
「……もし神が我々とともにおられるなら、なぜこんな目に遭っているんですか。神はどこですか」
使いは言った。「あなたはその力でイスラエルをミデアンから救う。わたしがあなたを遣わす」
ギデオンは答えた。
「わたしはマナセ族の中で最も力が弱い一族の出です。父の家の中でも一番若い。そんな者が何をできますか」
士師記の英雄たちは、たいてい最初は「自分には無理だ」と言う。
神は言った。「わたしがともにいる。ミデアンを一人の男を打つように打つ」
ギデオンはまだ信用しきれなかった。
「もし本当に神の使いなら、しるしを見せてください。捧げ物を持ってくるまでここにいてください」
「待つ」
ギデオンは山羊を料理し、パンを焼いて持ってきた。
使いが杖の先で捧げ物に触れると、岩から火が出て焼き尽くした。使いは消えた。
ギデオンは震えた。
「神の使いと顔を合わせてしまった。死ぬ」
神が言った。「安心しなさい。死なない」
ギデオンはその夜、神の命令でバアルの祭壇を壊した。
翌朝、町の人たちが祭壇が壊されているのを見て怒り狂った。
「誰がやった!」「ギデオンだ!」「連れてこい! 殺す!」
ギデオンの父が言った。
「バアルが神なら、自分で言えばいい。自分の祭壇を壊した者を、自分で裁けばいい」
これが効いた。誰も何も言えなくなった。
ミデアンの大軍が攻めてくるという知らせが届いた。
霊がギデオンに降り、角笛を吹いて民を集めた。三万二千人が集まった。
神が言った。
「多すぎる。これでは『自分たちの力で勝った』と思う。怖い者は帰ってよい」
二万二千人が帰った。一万人になった。
「まだ多い。川に連れて行け。ひざまずいて口を川につけて飲む者と、手で水をすくって飲む者を分けよ」
手で水をすくって飲んだ者は三百人。
「この三百人で戦え」
三万二千人から三百人へ。
ギデオンはさすがに不安だったのだろう。神は優しく言った。
「心配なら、夜こっそり敵の宿営に近づいてみなさい。元気が出るから」
ギデオンはこっそり敵の宿営に近づいた。
見張りの兵士が別の兵士に話しているのが聞こえた。
「夢を見た。大麦のパン一枚がころころ転がってきて、天幕に当たったら倒れた」
別の兵士が答えた。
「それはギデオンの剣の夢だ。神がミデアンを我々ごと渡したということだ」
敵が自分で自分たちの敗北を語っていた。
ギデオンは礼拝し、宿営に戻って叫んだ。
「起きろ! 神がミデアンを渡してくださった!」
真夜中に動いた。三百人それぞれに角笛と松明と水がめを持たせた。
「わたしがするのを見ていなさい。同じようにしなさい。角笛を吹いたら、吹きなさい。神のため! ギデオンのため! と叫びなさい」
宿営を三方から囲んだ。
一斉に角笛を吹き、水がめを割り、松明を掲げた。
「神の剣! ギデオンの剣!」
真夜中に突然、三方から大音響と炎。
ミデアンの宿営は大パニックになった。暗闇の中で仲間同士が斬り合い始めた。逃げ出した。
三百人が追いかけた。完勝だった。
民はギデオンに言った。
「我々を治めてください。あなたとあなたの子も、孫も」
ギデオンは言った。
「わたしが治めない。あなたたちの神が治める」
良い答えだ。
しかしその後、ギデオンは戦利品の金でエポデという宗教的な像を作り、それが民が拝む偶像になってしまった。
「ギデオンの家の罠となった」と聖書は静かに記す。
ギデオンが死ぬと、民はまたバアルを拝み始めた。
サイクルが回る。
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第十三章 ~ エフタ ~ 誓いが悲劇を生む話 ~
次はエフタの話だ。
彼は生まれた時から不遇だった。父はギレアドという人物だが、母は遊女だった。
腹違いの兄弟たちに言われた。
「お前は別の女の子だ。うちの財産は分けてやらない。出て行け」
エフタは追い出され、トブという土地に逃げて、ならず者たちと一緒に暮らした。
それから年月が経ち、アンモン人がイスラエルに攻め込んできた。
ギレアドの長老たちは困って、エフタを探しに来た。
「エフタよ、戻ってきて我々を率いてくれ」
エフタは冷たく答えた。
「あなたたちが追い出したのに、今さら何ですか」
「頼む。アンモンを打ったなら、お前がギレアドの頭になれる」
「本当に約束しますか」
「神が証人だ」
エフタは戻った。
まずアンモンの王と外交交渉を試みた。話し合いで解決しようとした。
うまくいかなかった。
開戦する前に、エフタは神に誓った。
「もし勝たせてくださるなら、家に帰ってきた時に最初に出迎えるものを、神に捧げます」
勝った。
凱旋して自分の家が見えてきた時、最初に出てきたのは娘だった。
一人娘だった。手鼓を打ちながら踊って迎えに来ていた。
エフタは服を裂いた。
「ああ、娘よ。お前はわたしを打ちのめした。誓ってしまった。取り消せない」
娘は言った。
「お父さんが神に誓ったなら、誓った通りにしてください。ただ二か月だけ、友達と山に行って泣かせてください。わたしは結婚もできないまま死ぬのですから」
「行きなさい」
二か月後に娘は戻ってきた。
エフタは誓いを果たした。
この話の結末について、聖書の記述は「誓いを果たした」とだけ書いていて、詳しくは書いていない。本当に娘を殺したのか、それとも結婚できない身として神殿に仕えることで「人生を捧げた」という意味なのか、今も議論が続いている。
どちらにしても、この話から伝わってくることがある。
神はエフタに「そんな誓いをしろ」とは一言も言っていない。エフタが自分で誓った。
思いつきで軽々しく誓わなければ、この悲劇は起きなかった。
旧約聖書は随所で「誓いを立てるな、立てるなら必ず守れ、しかし軽々しく立てるな」と繰り返し語る。
エフタの話はその最も重い例だ。
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第十四章 ~ サムソン ~ 最強のバカとデリラ ~
士師記の最後を飾るのは、おそらく旧約聖書の中で最もエンターテイメント性の高い人物だ。
サムソン。
生まれる前から神に選ばれていた。預言はこうだった。
「この子はナジル人として神に捧げられる。頭に剃刀を当ててはならない。この子はペリシテ人からイスラエルを救い始める者となる」
ナジル人とは、神への特別な誓願を立てた者のことで、その誓いが続く間は酒を飲まず、死体に触れず、頭を剃らないという決まりがある。
サムソンは育って、怪力の持ち主になった。
どのくらいの怪力かというと、子ライオンを素手で引き裂ける。
こういうことが普通にできる。
さてそのサムソン、ペリシテ人の町に出かけてペリシテ人の娘を気に入ってしまった。
「あの娘を嫁にしてくれ」と父母に言いに帰ってきた。
父母は困った。
「ヘブライ人の娘の中から選べないのか。なぜわざわざペリシテ人の娘を……」
「彼女がいい。彼女を取ってくれ」
交渉しても無駄そうだったので、家族で会いに行った。
道中、若いライオンが吠えかかってきた。
サムソンは素手でライオンを引き裂いた。ヤギを引き裂くようにあっさりと。
家族には黙っていた。
その後また会いに行った時、ライオンの死骸の中に蜂が巣を作り、蜂蜜が満ちていた。手ですくって食べながら歩いた。
結婚の宴が七日間開かれた。
サムソンは三十人のペリシテ人の宴の出席者になぞなぞを出した。
「食べるものが食べる者から出た。甘いものが強いものから出た。七日以内に答えたら亜麻布三十着と礼服三十着を払う。答えられなければお前たちが払え」
ライオンの死骸から蜂蜜が出た、という話だ。知っている者にしか解けない問題だ。
三日経っても答えが出なかった。
ペリシテ人たちは、サムソンの妻に圧力をかけた。
「旦那からなぞなぞの答えを聞き出せ。さもなければお前と父の家を焼く」
妻は七日間泣き続けた。
「わたしを嫌いなのね。愛していないのね。なぞなぞも教えてくれない」
「父母にも教えていないのに、なんで妻に教えるんだ」
七日目に諦めたサムソンは、妻に答えを教えた。
妻はペリシテ人に教えた。
七日目の夕暮れ前にペリシテ人たちが言った。
「蜂蜜より甘いものは何か。ライオンより強いものは何か」
サムソンは叫んだ。
「わたしの雌牛で耕さなければ、解けなかったはずだ!」
そして三十人を殺して服を奪い、賭けを払い、怒って帰った。
妻は別のペリシテ人の男に嫁がせられた。
麦刈りの頃に取り戻しに来たサムソンは事情を告げられた。
サムソンはペリシテ人に言った。
「今度やることはお前たちのせいだ」
三百匹の狐を捕まえた。
尻尾同士を結んで、松明を縛りつけた。
火をつけてペリシテ人の麦畑に放った。
三百匹の火狐が走り回り、麦が全部燃えた。
ペリシテ人がサムソンの元妻とその父を焼き殺した。
サムソンはさらに大勢のペリシテ人を殺した。
ペリシテ人がユダ族の地に攻め込んできた。「サムソンを引き渡せ」と言う。
ユダ族の三千人がサムソンを縛りに来た。
「おい、ペリシテ人がこの地を支配している状況でなぜこんなことをするんだ」
「あなたを縛ってペリシテ人に渡すために来た。我々は困っている」
「渡すだけか。自分では手を下さないと約束してくれ」
「渡すだけだ」
縛られた。ペリシテ人のところに連れていかれた。
ペリシテ人が大声を上げて向かってきた。
その瞬間、霊がサムソンに降った。
縛っていた縄が切れた。燃えた亜麻のように。
近くに落ちていたロバのあごの骨を拾った。
一人で千人を打ち殺した。
「あごの骨一本で千人! あごの骨で無数を倒した!」と歌った。
そして喉が渇いたことに気づいた。
「神よ、あなたがこの大きな救いをしてくださった。今わたしは渇いて死にそうです。ペリシテ人の手に落ちてしまいます」
神が地面を裂き、水が出た。サムソンは飲んで元気になった。
以後二十年、サムソンはイスラエルの士師として治めた。
しかしサムソンの根本的な問題は解決していなかった。
それは「口が弱い」こととと「女性に弱い」ことだ。
ガザの遊女のところへ行ったことが知られ、「夜明けに殺してやる」という声が上がった。
サムソンは夜中に起き上がり、ガザの城門を蝶番ごと二本の柱ごと引き抜き、ヘブロンの山頂に運び上げた。
都市の門を持ち去った。
その後、デリラという女性のもとに通い始めた。
ペリシテ人の指導者たちはデリラに話を持ちかけた。
「彼の力の秘密を探ってくれ。どうすれば縛れるか。一人あたり銀千百枚払う」
デリラはサムソンに聞いた。
「ねえ、あなたの力はどこから来るの。どうすれば縛れる?」
サムソンは答えた。
「乾いていない生の弦七本で縛れば弱くなる」
デリラは生の弦七本を入手し、縛った後に叫んだ。
「サムソン! ペリシテ人が来た!」
サムソンは弦を切った。蜘蛛の糸のように。
「嘘ついた! 本当のことを言って!」
「干した縄で縛れば弱くなる」
試した。また切った。
「また嘘!!」
「頭の七つの束を織機に織り込めば弱くなる」
また試した。また無効だった。
「三回も馬鹿にして! 本当に愛しているの!?」
そこから毎日毎日しつこく聞き続けた。
聖書はこう記している。「ついに死ぬほど苦しくなった」
サムソンはついに話した。
「生まれてから頭を剃ったことがない。神に選ばれた者だから。剃れば力がなくなる」
デリラはペリシテ人を呼んだ。
サムソンが膝の上で眠り込むと、そっと頭を剃った。
「サムソン! ペリシテ人が来た!」
「今度も振り払ってやる!」
力が出なかった。神がサムソンから離れていた。
サムソンはそのことに気づかなかった。
ペリシテ人はサムソンを捕まえ、目をえぐり出し、ガザに連れて行き、牢獄で石臼を引かせた。
最強の男が盲目になり、鎖をつけられ、牢の中で石臼を引いている。
だが時間が経つにつれ、剃られた頭髪が伸び始めた。
ペリシテ人は大きな祭りを開いた。ダゴンという神への感謝祭だ。
「我々の神がサムソンを渡してくださった!」
神殿は満員だった。屋根の上だけで男女三千人がいた。
「サムソンを連れてこい! 見世物にしよう!」
サムソンは引き出された。神殿の柱の間に立たされた。
サムソンは傍らの少年に言った。
「柱に触らせてくれ。もたれかかりたい」
そして神に祈った。
「神よ、思い出してください。この一度だけ力を与えてください。目の一方のために、ペリシテ人に復讐させてください」
神殿を支える二本の柱に両手をかけた。
「ペリシテ人と共に死ぬ!」
押した。
神殿が崩れ落ちた。
「サムソンが死ぬ時に殺した者は、生きている間に殺した者より多かった」
怪力があっても口が制御できなかった男。
女のしつこい問いかけに三回騙されて、四回目にも答えてしまった男。
旧約聖書は「欠点を持つ英雄」を正直に描く。神に選ばれた人物でも、完璧ではない。
それが人間だ、と旧約は言っているようだ。
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幕間 ~ 小さくて美しい話 ~
士師記の後に、一つの短い物語がある。
ルツ記だ。
士師の時代、カナンに飢饉があった。
エリメレクという男が妻ナオミと二人の息子を連れてモアブに移住した。
息子たちはモアブの女と結婚した。一人の名がルツだ。
ところが夫と二人の息子が相次いで死んだ。
ナオミは残された二人の嫁に言った。
「それぞれ実家に帰りなさい。あなたたちには新しい人生がある」
一人は泣いて別れを告げて帰った。
しかしルツは離れなかった。
ナオミは言った。「見なさい、姉妹は自分の民のところへ帰った。あなたも帰りなさい」
ルツは答えた。
「あなたを見捨て、あなたから離れて帰ることを強いないでください。あなたが行くところにわたしも行き、あなたが宿るところにわたしも宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。あなたが死ぬところでわたしも死に、そこに葬られます。死によって別れるほかは、あなたとわたしが別れるようなことをすれば、神がわたしを幾重にも罰してくださるように」
これが旧約聖書の中で最も美しい言葉のひとつだと言われている。
モアブ人のルツが、イスラエルの民の神を自分の神として受け入れた言葉だ。
二人はベツレヘムに帰った。
カナンには「落ち穂拾い」という慣習があった。畑の端と落ちた穂は貧しい者のために残しておく、という律法だ。
ルツは姑のために落ち穂を拾いに行った。
その畑の持ち主はボアズという裕福な人物だった。
「あの女は誰か」
「ナオミと一緒にモアブから帰ってきた女です。朝から今まで働いています」
ボアズはルツに言った。
「他の畑には行かなくていい。わたしの畑にいなさい。渇いたら水を飲みなさい」
「なぜそんなに親切にしてくださるのですか。わたしは外国人なのに」
「あなたが姑にしたことを全部聞いた。夫が死んだ後も、実家にも帰らず、知らない民のところに来た。神が報いてくださる」
こうしてルツとボアズは出会い、やがて結婚した。
ルツは息子を産んだ。
ナオミはその子を抱いた。
近所の女たちが言った。
「ナオミに息子が生まれた!」
そしてその子の名をオベデとつけた。
オベデはエッサイの父になった。
エッサイはダビデの父になった。
士師記の混乱の時代に、たった一人のモアブ人の女の忠誠が、一本の細い線でイスラエルの歴史を繋いでいた。
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エピローグ ~ 中巻を終えて ~
上巻では、神が世界を作り、人間が失敗し、ヘブライ人がエジプトで奴隷になった。
中巻では、奴隷から解放され、荒野を四十年さまよい、約束の地に入った。
しかし入った後も、同じことを繰り返した。
豊かになると忘れる。苦しくなると思い出す。
士師が来ると助かる。士師が死ぬとまた忘れる。
この繰り返しの末に、民の中に一つの声が育っていく。
「王が欲しい。我々にも王を」
周りの国はみんな王を持っている。強い軍隊を持っている。なぜ我々には王がいないのか。
その声はやがて神のもとに届く。
神の答えと、最初の王の誕生が、下巻を開く。
ダビデという男が待っている。ゴリアテという巨人が待っている。ソロモンの知恵が待っている。炎の預言者エリヤが待っている。ヨブという男の理不尽な苦しみが待っている。
そして何より、崩れていく王国と、諦めない神の声が待っている。
下巻へ。
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登場人物メモ(中巻)
・モーセ(百二十歳で死去)
四十年間、民の文句を聞き続けた。神と「顔と顔を合わせて」語り合った唯一の人間。
岩を叩いたことで約束の地には入れなかった。約束の地を目で見て、ネボ山で死んだ。
・ヨシュア
「強く、雄々しくあれ」を生きた男。太陽を止めた。城壁を崩した。百十歳で死去。
最後の言葉は「あなたたちは神に仕えることができない」という予言だった。
・カレブ
四十五年前に「神についていこう」と言い続けた男。八十五歳でアナク族の山地を求めた。信念を最後まで持ち続けた老戦士。
・ラハブ
エリコの女性。赤い綱で命を守った。外国人でありながらイスラエルに加わった。後のダビデ王の先祖。
・デボラ
女性の士師・預言者。戦争を指揮し、予言の通りにした。旧約最古の詩の一つを歌った。
・ギデオン
三万二千人を三百人にして勝った。神に何度も確認を求めた疑い深い英雄。
・エフタ
追い出されたならず者が士師になった。軽々しい誓いで娘を失った。誓いの重さを示す話の主人公。
・サムソン
史上最強の怪力。口が弱い。三回騙されても四回目に話してしまった。神に選ばれた欠点だらけの英雄。
・デリラ
サムソンの秘密を暴いた女性。「毎日しつこく」という戦術を用いた。
・ルツ
モアブ人の女。「あなたの神はわたしの神」と言った。信仰と忠誠の人。ダビデ王の先祖。




