第8話「声を上げた日」
「——助けて、ほしいんです」
エレーヌ・ベルクハルトの声は、震えていた。
閉架書庫の奥。四人が情報を突き合わせたあの日から数日後の放課後、エレーヌが図書室に現れた。いつもの席ではなく、カウンターの前に立っていた。
私が顔を上げると、エレーヌはまっすぐこちらを見ていた。無表情ではなかった。唇が白くなるほど強く噛み締められていて、目の縁がわずかに赤かった。
「エレーヌ様」
「あなたに、話したいことがあります」
声は小さかったが、はっきりしていた。自分から口を開くことを、覚悟して来たのだと分かった。
私は図書室の扉を確認した。他に生徒はいない。ミュラー教師は今日は不在だった。
「閉架書庫でよろしいですか」
エレーヌが頷いた。
閉架書庫の奥のテーブルに、二人で座った。
エレーヌはしばらく黙っていた。言葉を探しているのではなく、どこから話せばいいか決めかねているように見えた。
私は待った。前世の図書館でも、カウンターに来て何も言えずに立っている利用者がいた。そういう人には、こちらから問いを重ねない。相手が話し始めるまで、ただ隣にいる。
やがて、エレーヌが口を開いた。
「弟がいます。十二歳です。生まれつき体が弱くて、定期的に治療が必要です」
声は平坦だった。感情を乗せないよう、意識して抑えているのだと思った。
「一年前、神殿の下級神官が家に来ました。弟の治療を神殿が引き受けると。条件は、わたしが学園で聖女様の指示に従うこと」
指示。
あのメモに書かれていたこと。カティアを孤立させろ、という命令。
「断れませんでした。弟の治療は、王都の治療院でなければできない特殊なものです。治療費は伯爵家の財力では賄いきれません。神殿が治療を引き受けてくれるなら——」
エレーヌの手が、膝の上で握りしめられた。
「冷たい人間のふりをしました。カティア様に近づく人を遠ざけ、ヴィオラ様の悪評に加担し、聖女様の指示通りに動きました。全部、弟を守るためです」
「……存じております」
エレーヌが顔を上げた。
「本に挟まっていたメモを見ました。それから、あなたが薬学の本を必要としていることも」
エレーヌの目が大きくなった。それから、ゆっくりと視線を落とした。
「気づいて、いたんですね」
「はい」
「あの棚の本が増えていたのも」
「はい」
エレーヌの肩が、小さく震えた。泣いてはいなかった。泣くよりも深い場所で、何かが崩れているように見えた。
「どうして」
「あなたが何かを探しているように見えたからです。図書室管理係として、利用者が必要としている本をそばに置くのは仕事の一部です」
嘘ではない。でも、仕事だけでは説明がつかないことを、エレーヌは分かっているだろう。
「もう、一人で抱えなくても大丈夫です」
その言葉が、自分の口から出たことに少し驚いた。でも、本心だった。
「エレーヌ様。あなたの弟を安全な場所に移す方法を、一緒に考えさせてください」
ギルベルトに連絡を取ったのは、その日の閉館後だった。
翌日、閉架書庫に五人が集まった。ギルベルト、ヴィオラ、カティア、エレーヌ、そして私。
エレーヌがもう一度、全員の前で事情を語った。弟の病気のこと。神殿下級神官の脅迫。聖女の指示で演じてきた冷酷な役割。
語り終えたとき、ヴィオラが最初に動いた。テーブルを拳で叩いた。
「あの神官、ぶん殴ってやりたいわ」
「暴力では解決しません」
ギルベルトが静かに言った。
「まず弟の安全を確保する。それが最優先だ」
私はテーブルに紙を広げた。図書室の地図資料から、王都周辺の治療院の位置と、学園から王都への経路を書き出してあった。
「弟さんは現在、神殿が管理する治療院にいるはずです。そこから別の治療院に移すには、移送の経路と護衛、そして受け入れ先の確保が必要です」
「経路と時間割は僕が設計する」
ギルベルトがペンを取った。
「宰相家の魔道通信で、王都の信頼できる治療院に連絡を取れる。匿名での受け入れを手配する」
「護衛はあたしが出す」
ヴィオラが腕を組んだ。
「ネルソン家の騎士なら信用できる。武門の家だから、私兵を少人数派遣するのは慣例の範囲内よ」
「紹介状はわたくしが用意します」
カティアが言った。
「ヴァレンシュタイン公爵家の名で治療院への紹介状を書けば、受け入れを断る治療院はありません」
五人の役割が決まっていく。
私の仕事は、全体の時間割と経路の設計だった。図書室の地図資料と、学園に所蔵されている王都周辺の街道記録を照らし合わせ、最も安全で短い移送経路を割り出す。
前世の図書館で、利用者のために複数の資料を突合して情報を組み立てる作業を何度もやった。やっていることは同じだ。ただ、探しているのは本の場所ではなく、一人の少年を安全に移す道だった。
「移送は明後日の夜明け前が最適です」
地図の上に経路を引きながら、私は説明した。
「学園から王都までは馬車で半日。明後日は週末で、学園の外出許可が下りる日です。ヴィオラ様の騎士が学園の外で待機し、弟さんを現在の治療院から受け取り、公爵家の紹介状を持って新しい治療院に移送する。ギルベルト様の魔道通信で受け入れ先と連絡を取り、到着時間を合わせます」
「神殿側が弟の不在に気づくまでの猶予は」
ギルベルトの問いに、エレーヌが答えた。
「治療は三日おきです。次の治療日まで三日あります」
「三日。その間に、聖女の不正を公的に告発する必要がある」
ギルベルトの声が引き締まった。
「卒業パーティーまで、あと何日だ」
「三日後です」
沈黙が落ちた。
移送が成功しても、三日以内に聖女の不正を公にしなければ、神殿下級神官が報復に動く可能性がある。すべてが卒業パーティーの日に間に合わなければならない。
移送は、予定通りに実行された。
明後日の夜明け前。ヴィオラの手配した騎士が、エレーヌの弟を現在の治療院から引き取った。カティアの紹介状を持って新しい治療院へ。ギルベルトの魔道通信が、移送の進行を学園に伝えてきた。
昼過ぎ、ギルベルトがカウンターに来た。
「完了した。弟は新しい治療院に無事到着。受け入れ済みだ」
「ありがとうございます」
その言葉は、私が言うべきではなかったかもしれない。でも、口をついて出た。
ギルベルトは少しだけ目を細めた。
「礼を言うのはこちらの方だ。経路設計がなければ、あの速さでは動けなかった」
閉架書庫で、エレーヌが静かに泣いていた。カティアが隣に座り、何も言わずにいた。ヴィオラは書庫の入口に立ち、誰も入ってこないよう見張っていた。
エレーヌの肩の震えが止まったとき、彼女は顔を上げた。
「わたしは、証言します」
「エレーヌ様」
「卒業パーティーで。聖女がわたしにしたことを、全部話します」
その目には、もう怯えはなかった。
閉館後、図書室で一人になった。
卒業パーティーまで、あと一日。
ギルベルトは宰相家の魔道通信で父に連絡を取った。聖女の調査資料を送り、協力を求めた。宰相からの返事は短かった。
「お前の調査、見せてみろ」
ギルベルトはその一文を読んだとき、長い息をついた。安堵なのか覚悟なのか、私には判別がつかなかった。
父に手を伸ばした。母の事件に父が関与していないと信じて。あるいは、もう一人で抱えることの限界を認めて。
宰相が裏から動けば、神殿監査局の再稼働が可能になる。公的な調査機関が動けば、神託の記録の原本にもアクセスできる。
すべてが、卒業パーティーに向けて動いている。
私はカウンターの上に、整理した書類を広げた。
証拠の時系列リスト。文書番号の対応表。ヴィオラの調査メモとギルベルトの資料を突合した全体図。エレーヌの証言の要点整理。カティアの証言者リスト。
これを明日までに、告発書類として一つにまとめる。王太子の前で読み上げられる形に整える。
前世で、レファレンスカウンターに座って、利用者の質問に答えるために資料を組み立てていたのと同じ作業だ。違うのは、目の前にいるのが図書館の利用者ではなく、一つの国の真実だということ。
ペンを取った。
まとめ始めて、手が止まった。
ギルベルトの声が耳に蘇った。弟の移送完了を伝えに来たとき、彼が最後に言った言葉。
「君がエレーヌ嬢の隣に薬学書を置いた日から、この日が来ると思っていた」
何気ない口調だった。でも、その目は何気なくなかった。
あの目が何を意味しているのか、今の私にはわかる気がした。わかる気がして、でも今はそれについて考えている場合ではなかった。
ペンを握り直した。
明日。すべてが決まる。
書類に向かった。窓の外はもう暗い。鐘楼の鐘はとうに鳴り終わっていた。
私の仕事はここまでだ。ここまでが、図書室管理係にできること。
明日、表舞台に立つのは私ではない。でも、この書類の中に、二年半の図書室の仕事が全部詰まっている。
最後の一枚を書き終えたとき、窓の外に星が見えた。
明日は、晴れるだろうか。




