第7話「三人の合流」
閉架書庫の扉を閉め、鍵をかけた。
二年目の後半に入り、図書室の業務は安定していた。目録はほぼ完成し、日々の返却と配架の作業もルーティンになっている。生徒たちの来室は相変わらず多かったが、目録が機能しているおかげで本を探す手間は格段に減っていた。
その日の放課後、閉架書庫の整理を終えてカウンターに戻ると、図書室の扉が勢いよく開いた。
「あんた、ちょっと時間ある?」
ヴィオラ・ネルソンだった。
一年前、中庭の昼食会で私を聖女の犬と疑った侯爵令嬢。あの後、敵対は「保留」になり、それ以来は図書室で顔を合わせても軽く会釈を交わす程度の関係が続いていた。
だが今日のヴィオラの顔には、あの頃とは違う色があった。警戒や敵意ではない。切迫していた。
「はい。何かございましたか、ヴィオラ様」
「前にあんたがやった、あれ。日付を並べるやつ。もう一回やってくれない?」
ヴィオラが鞄から数枚の紙を取り出した。手書きのメモが何枚も重なっている。
「あたし、聖女の噂工作の証拠を集めてた。でも断片ばっかりで全体が見えないの。あんたの整理のやり方なら、何か見えるかもしれない」
紙をテーブルに広げた。走り書きの文字、日付、場所、人名。情報としては豊富だが、順序がばらばらだった。
ヴィオラの調査力は確かだった。一人でここまで集めたのは、侯爵令嬢の行動力と直感のたまものだろう。ただ、断片を全体像にまとめる手順が足りていない。
私の手が動きかけた。
だが、止まった。
ヴィオラの情報と、ギルベルトが持っている情報。この二つを突き合わせれば、聖女の策略の全体像が見えるかもしれない。でも、ギルベルトの調査内容をヴィオラに勝手に共有することはできない。彼が母親の件を私に打ち明けたのは、信頼の上でのことだ。
「ヴィオラ様、少しだけお待ちいただけますか」
「何よ」
「この情報を整理するにあたって、もう一人、関連する資料を持っている方がいます。その方の了承を取らないと、突合ができません」
ヴィオラの目が鋭くなった。
「誰」
「ギルベルト・ヴァイス様です」
ヴィオラが一瞬、黙った。宰相家の次男の名前は、侯爵令嬢にとっても軽くはない。
「……あいつも、何か調べてるの?」
「それは、ご本人からお聞きください。私の口からお伝えすることではありません」
ヴィオラは腕を組んで、しばらく私を見ていた。
「わかった。呼びなさい」
ギルベルトは図書室にはいなかった。
だが、閉館までにはいつも姿を見せる。待つしかない。
その間に、私はもう一人に声をかけることにした。
カティア・ヴァレンシュタインは、最近では週に一度ほど図書室を訪れるようになっていた。中庭でハンカチを拾って以来、直接言葉を交わす機会は多くなかったが、図書室で顔を合わせれば小さく頷き合う関係にはなっていた。
今日は閲覧席の端で本を読んでいた。
「カティア様、少しお時間をいただけますでしょうか」
カティアが本から顔を上げた。薄い紫の瞳が、真っ直ぐこちらを見た。
「何かしら」
「お話ししたいことがございます。ヴィオラ様もご一緒です」
カティアの眉がわずかに動いた。ヴィオラの名前を聞いて、警戒したのだろう。だが、私の顔を見て、少しだけ表情を緩めた。
「……あなたが言うなら、聞くわ」
カティアが席を立ち、ヴィオラのいるテーブルに向かった。二人が顔を合わせた。空気が張り詰めた。
「久しぶりね、カティア」
「ヴィオラ」
公爵令嬢と侯爵令嬢。身分はカティアが上だが、二人の間にあるのは上下関係ではなく、互いへの警戒だった。同じ学園で同じように孤立させられた者同士。だがそれを確認したことは、今まで一度もなかったはずだ。
図書室の扉が開いた。
ギルベルト・ヴァイスが入ってきた。いつもの時間だった。彼はカウンターに目を向け、奥のテーブルに三人がいることに気づいて、足を止めた。
私は奥のテーブルから歩みより、ギルベルトの前で一礼した。
「ギルベルト様。お願いがございます。お持ちの情報と、ヴィオラ様の調査資料を突き合わせていただけないでしょうか」
ギルベルトは私を見た。それから、テーブルのヴィオラとカティアを見た。
「……全員、集めたのか」
「お三方がそれぞれお持ちの情報を統合すれば、全体像が見えるかもしれません。ただし、共有の判断は皆様にしていただく必要があります」
ギルベルトはしばらく黙っていた。やがて、かすかに息をついた。
「わかった」
四人で閉架書庫に入った。人目につかない場所だ。書庫の奥のテーブルに、ヴィオラの調査メモを広げた。
私は目録帳と同じ要領で、情報の整理を始めた。
まず、ヴィオラの資料から日付と出来事を抜き出し、時系列に並べた。前世の司書業務で何百回とやってきた作業だ。紙とペンがあれば、頭の中で分類番号を振るように情報を配置できる。
次に、ギルベルトが持つ情報を照合した。彼は自分の調査メモを取り出し、テーブルに並べた。
「僕が持っているのは、神殿監査局の人事記録と、母の事件に関連する神託の日付だ」
ヴィオラのメモと並べると、日付の重なりが見えてきた。
「ここです」
私は二つの資料を指し示した。
「ヴィオラ様の資料では、カティア様の噂が広まり始めた時期と、ヴィオラ様への策略家のレッテルが貼られた時期が記録されています。ギルベルト様の資料では、同じ時期に監査官二名が転任しています。そしてその直後に、検証印のない神託が連続して発行されています」
四人の視線が、テーブルの上の紙に集まった。
「つまり、監査が機能しなくなった時期と、噂工作が始まった時期が一致している」
ギルベルトが静かに言った。
「監査の目がなくなったから、偽の神託を使い放題になった。その力を背景に、三人への工作を始めた」
ヴィオラが拳をテーブルに押し付けた。
「やっぱり、あの聖女が黒幕じゃない」
カティアは黙ったまま、紙の上の日付を見つめていた。唇が引き結ばれている。
全体像が見えた。だが、同時に足りないものも見えた。
「法的に有効な証拠が一つ足りません」
私は紙の余白に書いた。
「神殿監査局の検証印がない神託の記録。これの原本が神殿の記録庫にあるはずです。原本を入手できれば、神託の偽装を公的に証明できます。ですが、学園からは神殿の記録庫にアクセスする手段がありません」
沈黙が落ちた。
そしてもう一つ。
「エレーヌ・ベルクハルト様の問題があります」
名前を出した瞬間、ギルベルトがわずかに目を伏せた。
「彼女は聖女の手先にされています。弟の治療を人質に取られている。エレーヌ様を証言者にするためには、まず弟の安全を確保しなければなりません」
ヴィオラが顔を上げた。
「……あの子、そんなことになってたの」
カティアが目を閉じた。開いたとき、その瞳には静かな怒りがあった。
「わたくしの知らないところで、あの子がそんな目に遭っていたのね」
四人の間で、空気が変わった。それぞれが個別に抱えていた問題が、一つの構図として繋がった瞬間だった。
ギルベルトが口を開いた。
「神託の記録へのアクセスは、僕が手配する」
ヴィオラとカティアが彼を見た。
「宰相家の権限を使う。父に協力を求める」
その言葉の重さを、私は知っていた。彼が父に報告しなかったのは、母の事件に父が関与していないと確認できるまで信用できなかったからだ。
今、その壁を越えようとしている。
「ギルベルト様」
「大丈夫だ」
彼は私を見た。穏やかな目だった。でも、その奥に覚悟があった。
「君と話してきて、分かったことがある。一人で抱え込んでいても、証拠は揃わない。父が関与していたなら、そのときはそのときだ」
カティアが立ち上がった。
「わたくしは社交界の人脈を使います。わたくしへの噂が捏造だったと証言できる者を探します」
ヴィオラも立ち上がった。
「あたしは裏取りを続ける。現場を押さえるのはあたしの仕事でしょ」
三人がそれぞれの役割を決めていく。私はテーブルの上の紙を見ながら、もう一つの役割を自分に課した。
情報の結節点。
散らばった断片を集め、並べ、全体を見えるようにする。前世の図書館で、利用者が探しているものを見つける手助けをしていたのと同じだ。ただし、今探しているのは本ではなく、真実だった。
閉架書庫を出たとき、窓の外はもう暗かった。
カティアとヴィオラが先に図書室を出た。扉が閉まる前に、ヴィオラが振り返った。
「あんたさ」
「はい」
「変なやつだって言ったの、撤回しない。でも、悪い意味じゃなくなった」
それだけ言って、出ていった。
ギルベルトがカウンターの前で立ち止まった。
「こんなはずじゃなかった、という顔をしているね」
見透かされている。
「目立たない存在として卒業するはずだったんですが」
「目立たない存在は閉架書庫で四人の密会を仕切ったりしない」
「仕切ったつもりはありません。情報を並べただけです」
「それが一番難しいことだと、君は気づいていないんだろうね」
ギルベルトは鞄を肩にかけた。扉に手をかけて、振り返った。
深い青の目が、いつもより近い距離でこちらを見ていた。
何か言いかけた。口が動きかけて、止まった。彼は首を軽く振り、小さく笑った。
「おやすみなさい、トーレス嬢」
「おやすみなさいませ、ギルベルト様」
扉が閉まった。
一人になった図書室で、テーブルの上に広げたままの紙を片付けた。
こんなはずじゃなかった。
本当に、こんなはずじゃなかった。でも、四人で閉架書庫に集まったとき、嫌ではなかった。散らばった情報が一つに繋がっていく感覚。それぞれが自分の役割を見つけて動き出す瞬間。
嫌じゃない、と思った自分に気づいて、少しだけ困った。
紙を鞄にしまい、図書室の灯りを消した。鍵をかけて、廊下に出た。
窓の外に星が見えた。
まだ足りないものがある。神託の原本。エレーヌの弟の安全。そして、エレーヌ自身の声。
でも、今日初めて、一人ではないと思えた。
寮への道を歩きながら、ギルベルトの最後の表情を思い出した。何か言いかけて、やめた顔。
何を言おうとしたのだろう。
考えて、やめた。今はそれどころではない。
足を速めた。明日から、本当の仕事が始まる。




