第6話「見えない糸」
エレーヌ・ベルクハルトが聖女の手先にされていたことを、私は一枚のメモで知った。
それは、薬学書の間に挟まっていた。
閉館後の図書室で、返却された本を棚に戻す作業をしていたときだった。エレーヌが借りていた症例集を開くと、ページの間から薄い紙片が滑り落ちた。
栞かと思った。
拾い上げて、手が止まった。
紙片には手書きの文字が並んでいた。インクの色は薄く、急いで書かれた筆跡だった。
「弟の治療の継続を望むなら、次の社交会でカティアを孤立させろ」
短い一文だった。
宛名はない。差出人の名前もない。だが、文面の意味は明白だった。誰かがエレーヌに指示を出している。弟の治療を人質にして。
手が震えた。
これは、エレーヌが本に挟んだまま返却してしまったものだ。おそらく本の間に隠していたことを忘れていた。あるいは、返却時に気づかなかった。
メモの筆跡を見た。書き慣れた文字だが、貴族の教育を受けた手ではない。角ばった実務的な文字。神殿の文書に多い書体だった。
胸の奥が痛んだ。
エレーヌは脅されていた。弟の病気を人質に取られて、聖女の指示に従わされていた。カティアを孤立させたのも、彼女自身の意志ではなかった。
ゲームの中では「冷酷な伯爵令嬢」。現実のエレーヌは、弟を守るために悪役を演じさせられていた人だった。
メモを手に持ったまま、カウンターの椅子に座った。
どうする。
事務局に届けるか。だがこれはエレーヌの私物だ。管理係が利用者の私物を勝手に事務局に提出すれば、エレーヌの秘密が露見する。彼女がこのメモを隠していたのには理由があるはずだ。
エレーヌに直接返すか。だが返すだけでは何も変わらない。彼女は脅迫を受けたまま、弟を人質に取られたままだ。
私にはこの問題を解決する力がない。子爵令嬢の図書室管理係に、神殿がらみの脅迫を止める手段はない。
でも。
この図書室に、一人だけ、この情報の意味を理解できる人がいる。
ギルベルト・ヴァイスは、いつもの席で本を読んでいた。
私はメモを手に、奥の閲覧席へ向かった。足が重かった。これを渡せば、もうモブには戻れない。一年目に人事記録の冊子を渡したときとは意味が違う。あのときは管理係として配架先を相談しただけだった。今回は違う。
知ってしまった。知って、見て見ぬふりができなかった。だから渡す。
それは管理係の仕事ではない。ロゼリア・トーレスという人間の判断だ。
「ギルベルト様」
声をかけた。彼が顔を上げる。
「これを、お渡ししたいものがあります」
メモをテーブルに置いた。
「返却された本の間に挟まっていました。利用者の忘れ物です。ですが、内容が——あなたが探しているものに関係があるかもしれないと思いました」
嘘は言っていない。忘れ物であることは事実だ。だが、それを事務局ではなくギルベルトに渡したのは、私の判断だった。
ギルベルトがメモを手に取り、読んだ。
一瞬だった。彼の目が変わったのは。
穏やかさが消えた。冷えた、鋭い目。一年前に人事記録を見せたとき以上の反応だった。
「……これは、誰の本に挟まっていた」
「申し訳ありません。利用者の個人情報はお伝えできません」
管理係として、借りた人の名前を第三者に伝えることはできない。それは前世の図書館でも同じだった。
ギルベルトは私を見た。問い詰める目ではなかった。私の答えを予想していたような、むしろ確認するような目だった。
「……わかった。名前は聞かない」
メモをもう一度読み、表を裏を確かめ、テーブルに戻した。
「トーレス嬢」
「はい」
「ここから先に踏み込むと、もう"目立たない存在"ではいられない」
心臓が跳ねた。
彼は知っていた。私が「モブでいたい」と思っていることを。この一年半、図書室の隅で透明でいようとしていたことを。
「知ってしまったのに何もしないのは、見て見ぬふりと同じです」
口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど明確だった。
ギルベルトが黙った。長い沈黙だった。
「……僕は」
彼の声が、わずかに揺れた。
「一人で調べてきた。誰も巻き込みたくなかった。巻き込めば、その人が聖女の標的になる。母のように」
ギルベルトの手が、テーブルの上で拳を作った。
「母は何も悪いことをしていないんだ」
敬語が崩れていた。
穏やかで皮肉交じりの口調が消えて、むき出しの感情がそこにあった。入学初日に書類を拾った青年の、あの整った声とは違う。痛みを押し殺してきた人間の声だった。
私は何も言えなかった。
彼の母親が聖女の神託で冤罪を受け、修道院に送られたこと。噂としては知っていた。でも、目の前で本人の口から聞く言葉は、噂とは重さが違った。
「ギルベルト様」
「……すまない。取り乱した」
彼は拳を開き、息をついた。目を伏せ、数秒の間を置いて、顔を上げたときには穏やかな表情が戻っていた。でも、目の奥の温度は戻りきっていなかった。
「トーレス嬢。このメモは預かる。僕の調査に必要な証拠だ」
「はい」
「そして、君に一つだけ話しておくことがある」
ギルベルトはテーブルの上のメモに目を落とした。
「僕が調べているのは、聖女マリアンヌの不正だ。彼女の神託は偽装されている。その証拠を集めて、正当な手続きで暴くのが僕の目的だ」
知っていた。ゲームの知識ではなく、この一年半の観察で。
「母は八年前、聖女の神託によって冤罪で修道院に送られた。父は——宰相は、政治的判断で母を守らなかった。だから僕は父にも報告していない。父がこの件に関与していないと確認できるまでは」
ギルベルトの声は静かだった。敬語が戻っていた。だが、さっき崩れた瞬間を聞いた後では、その丁寧さがかえって痛々しく聞こえた。
「君に話したのは、このメモを持ってきた時点で、君がもう無関係ではないからだ。巻き込みたくはなかった。でも、君は自分で踏み込んできた」
「はい」
「だから、せめて何に踏み込んだのかは知っておいてほしい」
私は頷いた。
ギルベルトがメモを鞄にしまった。そして、立ち上がりかけて、止まった。
「……トーレス嬢」
「はい」
「君がエレーヌ嬢の隣に薬学の本を並べていたこと、僕は見ていた」
息が止まった。
見られていた。エレーヌのために棚を整理していたことを、彼は知っていた。
「管理係の仕事だと思っていたのかもしれない。でも、あれは仕事ではないだろう」
返す言葉がなかった。
「君は目立たない存在だと言うけれど、目立たない存在はああいうことをしない」
ギルベルトはそれだけ言って、鞄を肩にかけた。
「おやすみなさい、トーレス嬢」
「おやすみなさいませ、ギルベルト様」
足音が遠ざかり、扉が閉まった。
図書室に一人残された。
椅子の背にもたれて、天井を見上げた。
もう引き返せない。
メモを渡した。ギルベルトの話を聞いた。彼の母親のことを、聖女の不正を、彼が一人で抱えてきたものの重さを、知ってしまった。
モブでいたかった。三年間、透明でいたかった。
でも、書類を拾い、資料を渡し、ハンカチを拾い、日付を並べ、本を棚に置き、メモを届けた。どれも小さなことだった。でもその小さなことが、一つずつ積み重なって、今ここにいる。
目を閉じた。
ギルベルトの声が耳に残っていた。敬語が崩れた、あの一瞬。
「母は何も悪いことをしていないんだ」
あの声に含まれていた感情の深さに、初めて触れた。穏やかな仮面の下に、あれだけの痛みがあったのだ。
そして、最後に彼が言った言葉。
「目立たない存在はああいうことをしない」
胸の奥がざわついた。何と名前をつけていいかわからない感情だった。
鍵をかけて図書室を出た。
廊下は暗かった。窓の外に薄い月が見えた。
寮への道を歩きながら、二人の関係が変わったことを感じていた。図書室の司書と利用者ではなくなった。同じ問題を知っている者同士。共犯者、という言葉が頭に浮かんで、少しだけ胸が痛んだ。
振り返らなかった。振り返っても、図書室の灯りはもう消えている。
明日からは、今までとは違う放課後になる。
それが怖いのか、怖くないのか、まだわからなかった。




