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【第4章追加!】モブ令嬢に転生したのでモブらしく生きていたら、なぜか聖女の化けの皮が剥がれモブでは済まなくなりました  作者: 月雅
第1章

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第5話「沈黙の理由」

あの人は、何を探しているのだろう。


二年目に入った学園生活は、一年目と同じように静かだった。少なくとも、図書室の中では。


目録の再整理は順調に進んでいた。一年目で全棚の配架を確認し、分類番号を振り直した。二年目に入ってからは、閉架書庫の奥まで手を伸ばし、目録の精度を上げている。ミュラー教師は相変わらず老眼鏡の奥から私を眺めるだけだったが、先月、「君のおかげで教師からの問い合わせが減った」と言った。褒められたのかどうか微妙だが、図書室の目録が機能し始めている証拠ではある。


生徒たちの来室も増えていた。


「図書室に行けば何でも見つかる」という評判が、いつの間にか広まっている。試験前になると閲覧席が埋まるようになった。本の場所を尋ねてくる生徒に応対する回数も増えた。


モブとして透明でいるはずが、図書室管理係としての存在感だけが勝手に育っていく。困ったことだが、管理係の仕事を手抜きするわけにもいかない。仕事は仕事だ。


放課後、返却された本を棚に戻しながら、閉架書庫の入口を通りかかった。


書庫の奥に、人影があった。


黒い髪を耳の下で切り揃えた、小柄な令嬢。無表情のまま、棚の前に立っている。


エレーヌ・ベルクハルト。


入学式の日、中列の席で見かけた伯爵令嬢。ゲームでは「冷酷な伯爵令嬢」として断罪される三人目の悪役令嬢。


彼女がいつから図書室に来るようになったのか、正確にはわからない。気づいたのは数週間前だった。閉館間際に閉架書庫の奥を確認すると、エレーヌがいた。何も借りず、何も聞かず、棚の前に座っているだけだった。


次の日もいた。その次の日も。


いつも同じ場所。閉架書庫の最も奥、薬学と治療術の棚がある一角。人目につかない場所だ。


最初、私は声をかけなかった。


前世の図書館にも、こういう利用者はいた。本を読みに来ているのではなく、居場所を求めて来ている人。話しかけてほしいわけではない。ただ、静かな場所に座っていたいだけだ。


そういう人には、声をかけない。相手が自分から動くまで待つ。それが、前世の図書館で私が学んだやり方だった。


だから私は、エレーヌに何も言わなかった。


ただ、一つだけやったことがある。


エレーヌがいる棚の周辺を、少しだけ整理し直した。


薬学と治療術の棚は、もともと蔵書が少なかった。古い薬草図鑑と、使われなくなった処方録がぱらぱらと入っている程度だ。閉架書庫の中でも最も人が来ない一角だった。


目録の再整理を進める中で、他の棚に紛れ込んでいた薬学関連の書籍を何冊か見つけていた。基礎薬学の教科書、薬草の栽培記録、王都の治療院が刊行した症例集。分類上、この棚に配架すべき本だ。


管理係として、正しい場所に戻す。それだけのことだ。


エレーヌがいる棚の近くに、薬学関連の蔵書が少しずつ増えていった。


三週間が過ぎた。


エレーヌは相変わらず毎日来ていた。同じ場所に座り、何もしない。


ある日の放課後、私が閉架書庫の棚を確認していると、エレーヌの手元にいつもと違うものが見えた。


本を開いている。


薬草の栽培記録だった。先週、私がこの棚に戻した一冊。


エレーヌの指がページをゆっくりめくっていた。読んでいるのか、眺めているだけなのか、表情からは読み取れなかった。


私は何も言わず、棚の確認を続けた。目が合わないように、反対側の棚を先に見た。


その翌日、カウンターに一冊の本が返却台に置かれていた。


薬草の栽培記録。


貸出カードを確認した。エレーヌ・ベルクハルトの名前が記されていた。正規の手続きで借りている。


私は貸出カードに返却日を記入し、本を棚に戻した。


それだけのことだ。初めて本を借りた、というだけ。


でも、何かが変わった気がした。何週間もただ座っていただけの人が、一冊の本に手を伸ばした。


司書の本能が、そこに意味を読み取ろうとする。


あの人は薬学の本を必要としている。病弱な誰かのためか、自分のためか、それはわからない。わからないが、棚の近くに本があったから手に取った。それだけは確かだ。


ゲームの記憶が頭をよぎった。


「冷酷な伯爵令嬢」。ゲームの中のエレーヌは、感情のない人形のように他者を切り捨てる悪役だった。


でも、目の前のエレーヌは違う。


冷酷には見えなかった。無表情の下に、何かを押し殺している顔をしていた。閉架書庫の奥に毎日来て、人目を避けて座っている。あれは冷酷な人間の行動ではない。


怯えている人の行動だ。


カティアのときもそうだった。ゲームでは「高慢な公爵令嬢」だったのに、実際には壁際で唇を噛んで耐えていた。ヴィオラも「陰謀好きの侯爵令嬢」のはずが、本当は恐怖と闘っていた。


ゲームの情報と、目の前の現実が合わない。


三人の悪役令嬢。三人とも、ゲームの設定とは違う顔をしている。


「……ゲームの情報、どこまで信用できるんだろう」


カウンターで小さく呟いた。


入学の日から、ゲームの記憶を行動の指針にしてきた。誰に近づいてはいけないか、何が起きるか、どう避けるか。すべてゲームの知識に基づいていた。


でも、一年半が過ぎて、その知識は現実と一致しないことが増えている。


悪役令嬢は悪役ではなかった。


なら、他の情報も間違っているかもしれない。聖女の行動、王太子の判断、断罪の手順。ゲームで「こうなるはず」と思っていたことが、本当にその通りに起きるのかどうか。


わからなくなっていた。


放課後の図書室。


エレーヌは今日も閉架書庫の奥にいた。また別の本を手に取っている。王都の治療院が刊行した症例集だ。これも、先週私が棚に配架し直した一冊。


彼女は本を膝の上に開き、静かにページをめくっていた。


私は棚の整理をしながら、エレーヌの近くを通った。声はかけない。ただ、いつも通りの距離で、いつも通りの作業をする。


エレーヌがわずかに顔を上げた。


目が合った。


一瞬だけだった。エレーヌはすぐに視線を本に戻した。


でもその一瞬、彼女の目の奥に浮かんだものを、私は見逃さなかった。


安堵。


ほんのかすかな、気づいてもらえた、という安堵の色。


私は何も言わず、棚の反対側に回った。胸の奥が少し痛んだ。


この人は助けを求めている。声に出せないだけで。


でも、私は管理係だ。モブだ。悪役令嬢たちの事情に首を突っ込む立場にはない。


そう思っているのに、手が勝手に動いている。棚を整理し、本を正しい場所に配架し、この人の近くに必要そうな本を置く。話しかけるわけではない。ただ、環境を整えるだけ。


前世の図書館でも、そうしていた。話しかけてほしくない利用者のために、棚の配置をさりげなく変える。必要そうな資料を目につく場所に並べておく。その人が自分で手を伸ばすまで、待つ。


管理係の仕事の範囲内だ。そう自分に言い聞かせた。


閉館時間が近づいていた。


奥の閲覧席でギルベルトが本を閉じる音がした。彼はいつも通り、閉館前にカウンターで本を返却する。


「トーレス嬢」


「はい」


「閉架書庫の薬学の棚、最近充実したね」


何気ない言葉のようだったが、彼の目は笑っていなかった。いつもの穏やかさの下に、何かを確認する視線があった。


「分類の見直しで、他の棚に紛れていた本を戻しただけです」


「そうか」


ギルベルトは返却した本を受け取る私の手元をちらりと見て、それから閉架書庫の方向に目を向けた。エレーヌが席を立ち、静かに書庫を出ていくところだった。


「……エレーヌ・ベルクハルト嬢か」


小さな声だった。私に聞かせるためではなく、自分に確認するように呟いた。


彼はエレーヌを知っている。その名前を口にしたときの目は、中庭でカティアを見たときの私と同じ——ゲームの知識ではなく、目の前の現実を見ている人間の目だった。


「おやすみなさい、トーレス嬢」


「おやすみなさいませ、ギルベルト様」


彼が去った後、図書室の鍵をかけた。


廊下を歩きながら、エレーヌの目を思い出した。あの一瞬の安堵。


それから、ギルベルトがエレーヌの名前を呟いたときの声。


彼は何かを知っている。エレーヌの背後にあるものを。


でも、聞かない。聞けば、また一歩踏み込むことになる。


寮への道は暗かった。鐘楼の鐘が一つ鳴った。いつもの閉館の音だ。


明日も図書室を開けて、棚を確認して、目録を書いて、閉館の鍵をかける。


エレーヌが明日も来るなら、また同じ場所に座るだろう。私は声をかけない。ただ、本がそこにあるようにしておくだけだ。


それが、今の私にできることの全部だった。

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― 新着の感想 ―
閉架書庫は普通、関係者以外立ち入り禁止では? 開架式書庫または通常の書架なら分かるのですが... お話は面白いのですが、図書館用語の誤用が目についてしまって、もったいないです
悪役令嬢三人とも転生者の可能性が見えてきたなぁ
図書室を出る挨拶で、また明日。ごきげんよう。ではなくおやすみなさい、なのがなんだか変だなと思いました。 学校の放課後だけな気がするのに、そんな帰ってすぐ寝る時間、23時くらいまで開いていて居座っていた…
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