第10話「ロゼリアの名前」
新しい名前は、まだ少しだけ重かった。
婚姻式が終わり、大広間から宰相府の庭園に場所が移った。冬の午後。空は晴れていた。冷たい空気の中に、陽の光が白く差していた。
庭園には、祝賀の席が設えてあった。長いテーブルが並び、銀の食器が光っていた。冬の花が飾られた卓上。宰相家の紋章が入った布が敷かれている。
列席者が庭園に移り、祝賀が始まった。
社交界の主要な人物たちが、順番に祝辞を述べに来た。公爵家の当主。侯爵家の夫人。伯爵家の代表。王府の高官。
「ロゼリア・ヴァイス様、おめでとうございます」
その名前で呼ばれるたびに、背筋が伸びた。
ロゼリア・ヴァイス。
朝まで「ロゼリア・トーレス」だった人間が、今は「ロゼリア・ヴァイス」として社交界に立っている。名前が変わった。肩書きが変わった。だが、中身は変わっていない。
変わっていないはずだ。
祝辞を受けるたびに、丁寧に頭を下げた。宰相家の一員として。ギルベルトの母に教わった所作で。深すぎず、浅すぎず。宰相家の格式にふさわしい礼。
初めて宰相家の茶会に出たとき、侯爵夫人への礼が深すぎた。あのときの失敗を思い出した。あれから何度も練習した。今日は間違えなかった。
だが、所作を間違えないことと、この場に馴染むことは、まだ別の問題だった。
挨拶の時間が来た。
宰相家の婚姻式では、新しく家に入った者が社交界に向けて最初の挨拶をする慣例がある。ギルベルトの母に教わった慣例。何度も推敲した言葉。
庭園の中央に立った。
列席者の目が集まった。社交界の目。政界の目。かつて「身分不相応」と囁いた者たちの目。フェルトハイム伯爵夫人の目もあった。態度を翻して列席した夫人。社交界での信用を自ら失った夫人。その目は、今日は何も語っていなかった。沈黙していた。
全ての目の前で、口を開いた。
「本日は、お忙しい中お越しいただき、ありがとうございます」
声が庭園に響いた。冬の空気は乾いていて、声がよく通った。
「ロゼリア・ヴァイスとして、宰相家の一員として、これからもよろしくお願いいたします」
短い挨拶だった。
ギルベルトの母と相談したとき、長い挨拶は不要だと言われた。宰相家の格式は、言葉の量ではなく、言葉の重さで測られる。短く、誠実に。
それだけでよかった。
列席者が拍手した。形式的な拍手。だが、その中に、温かい音がいくつかあった。
カティアの拍手。ヴィオラの拍手。エレーヌの拍手。父の拍手。
聞き分けられるはずがない。だが、分かった。
祝賀が続いた。
カティアが近づいてきた。
「やっとね」
静かな声だった。公爵令嬢としての礼を保ちながら、友人としての言葉を添えた。
「長かったわ。でも、あなたはここに来た。自分の足で」
「カティアのおかげでもあるわ」
「私は助言しただけ。歩いたのはあなた」
カティアが微笑んだ。公爵令嬢の微笑み。だが、その奥に、学園時代から変わらない友人の顔があった。
ヴィオラが来た。
「長かったわね」
笑っていた。ヴィオラらしい笑顔。率直で、飾りがなくて、明るかった。
「泣かなかったでしょう」
「泣きませんでした」
「偉い。私は少し泣いた」
「ヴィオラが」
「ちょっとだけよ。ちょっとだけ」
ヴィオラが目を逸らした。照れていた。侯爵令嬢が照れている。珍しい光景だった。
エレーヌが静かに近づいた。
「おめでとうございます」
穏やかな声。いつもの声。手紙と同じ声。
「聖女制度改革の施行が、正式に始まりました。今朝、宰相府から神殿に通達が届いています」
「今朝」
「はい。婚姻式の日に合わせたのかどうかは分かりません。ですが、ロゼリアさんの報告書が、改革の基礎文書として正式に記録されました」
報告書が、基礎文書として記録された。
施行細則の策定。会合での発言。保守層の批判。宰相の裁定。全てを経て、報告書が制度の中に組み込まれた。
子爵令嬢が書いた文書が、王国の制度を動かした。
「ありがとう、エレーヌ。あなたがいなければ、あの報告書は完成しなかった」
エレーヌが少しだけ目を伏せた。照れたのではなかった。静かな満足だった。対等な友情の中での、誠実な受け止め方。
庭園の隅で、ギルベルトが待っていた。
祝賀の喧騒から少し離れた場所。冬の木が一本、葉を落として立っていた。枝の先に、空が見えた。
「疲れたか」
「少しだけ」
「少しだけ、か」
ギルベルトが笑った。
隣に並んだ。手を繋いだ。
庭園のテーブルでは、まだ祝賀が続いていた。社交界の人々が談笑している。政界の人物が情報を交換している。宰相が王太子と短い会話をしている。クラウスが宰相府の官吏と話をしている。ギルベルトの母が父と話している。子爵家の当主と、宰相家の母が、並んで座って話している。
その景色を見ていた。
「ギルベルト」
「うん」
「私、ここに来るまで長かった」
「長かったな」
「図書室で本を並べ替えていたころ、こんな場所に立つと思わなかった」
「僕も、あの手紙を書いたとき、こうなるとは思っていなかった」
手紙。全てが始まった一通の手紙。母の冤罪について調べてほしい、と。
「あの手紙がなかったら」
「考えないことにしている」
ギルベルトが手を握った。少しだけ、力が入った。
「なかったら、を考えても仕方がない。あったから、ここにいる。それだけだ」
そうだった。
手紙が来た。書庫に入った。記録を見つけた。法廷に立った。報告書を書いた。王太子に提出した。制度が変わった。名前が変わった。
一つずつ、選んできた。自分の名前で立つと決めた。
そして今、新しい名前で立っている。
夕暮れが近づいていた。
庭園に橙色の光が差し始めた。
冬の夕暮れは早い。午後の白い光が、少しずつ色を変えていた。
橙色。
再審の日、法廷の窓から見た色。母の帰還の日、宰相府の廊下で見た色。婚約公表の日、大広間の窓から見た色。
同じ色が、今日もここにあった。
社交界はロゼリア・ヴァイスを受け入れた。かつて「身分不相応」と批判した者たちは沈黙している。報告書は制度の基礎文書として記録された。聖女制度改革は施行を開始した。
全てが、ここに至った。
ギルベルトが隣にいた。手を繋いでいた。
橙色の光が、二人の影を庭園の石畳に伸ばしていた。
名前が変わった。
ロゼリア・トーレスから、ロゼリア・ヴァイスへ。
子爵令嬢から、宰相家の一員へ。
図書室の管理係から、制度改革の報告書作成者へ。
でも、事実を守る人であることは変わらない。記録を整理し、構造を見つけ、事実を並べる。それが私のやり方だった。これからも、そうだ。
ロゼリア・ヴァイス。
新しい名前。変わらない自分。
橙色の光の中で、ギルベルトの手を握り返した。
「ありがとう」
「こちらこそ」
短い言葉。それだけで十分だった。
庭園の橙色が深くなっていく。冬の日暮れ。祝賀の灯りが一つずつ点り始めていた。
新しい名前で、新しい場所で、新しい役割が待っている。
だが、それは明日からの話だ。
今日はただ、この橙色の中で、隣にいる人の手の温かさを感じていればよかった。
(完)
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