第4話「侯爵令嬢の誤解」
「あんた、放課後に図書室に来なさい」
昼休みの廊下で、ヴィオラ・ネルソンはそれだけ言って去っていった。
命令口調だった。侯爵令嬢から子爵令嬢への言葉としては、身分上は問題がない。だが廊下を行き交う生徒たちの視線が、一瞬こちらに集まったのが分かった。
中庭の昼食会から数日が経っていた。あの日以来、ヴィオラと顔を合わせることはなかったが、忘れられてはいなかったらしい。
「覚えてなさいよ」という言葉は、本気だったのだ。
放課後。図書室の扉を開けると、奥の閲覧席にヴィオラが腕を組んで座っていた。
ギルベルトの姿はなかった。今日はいつもの席にいない。それだけで少し図書室の空気が違って感じるのは、一ヶ月以上毎日顔を合わせていたせいだろう。
カウンターに鞄を置き、ヴィオラの席へ向かった。侯爵令嬢の呼び出しに応じないわけにはいかない。
「お呼びと伺いましたので、参りました」
浅く一礼した。ヴィオラは私の顔をまっすぐ見ていた。
「座りなさい」
向かいの椅子を顎で示された。言われるまま腰を下ろした。
ヴィオラは腕を組んだまま、しばらく黙っていた。何かを見極めようとしている目だった。中庭で見た敵意は変わっていないが、その奥にある恐怖のほうが、今日は色濃く見えた。
「あんたが聖女の手先でないなら、証拠を見せなさい」
「……証拠、でございますか」
「あたしはね、あの聖女がカティアの噂を流したって確信してるの。でも証拠がない。調べてるけど、断片ばっかりで全体が見えない」
ヴィオラの声が低くなった。
「そこにあんたが現れた。カティアに近づいて、ハンカチなんか拾って。もしあんたが聖女の仕込みなら、あたしの調査も筒抜けってことになる」
だから確かめに来た、ということか。
私は聖女の手先ではない。だがそれを証明する方法は難しい。「やっていない」ことの証明は、どんな世界でも困難だ。
ゲームの知識を使えば、カティアの噂が聖女の工作だとはっきり言える。だが、なぜそんなことを知っているのかと聞かれたら説明がつかない。
別の方法が必要だった。
「ヴィオラ様。一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何」
「カティア様の噂が広まり始めたのは、いつ頃でしょうか」
ヴィオラの眉がわずかに動いた。
「……入学して二週間くらい。急に、あちこちで聞くようになった」
「聖女様がこの学園に入学されたのは、私たちと同じ日ですね」
「そうよ。それが何」
「図書室の管理係として、学園の掲示物や回覧文書の日付は確認しております。聖女様が入学された日、学園掲示板に聖女様の歓迎告知が掲出されました。その日付と、カティア様の噂が確認できる最初の記録——学園の相談窓口への匿名投書の受理日が、同じ週です」
私は前世の司書業務で培った手順をなぞっていた。事実を時系列に並べるだけだ。推測は入れない。
「噂の発生時期と、聖女様の入学時期が一致している、というのは偶然かもしれません。ただ、日付を並べた結果をお伝えしているだけです」
ヴィオラの目が変わった。敵意とは違う何かが浮かんでいた。
「……あんた、なんでそんなこと知ってるの」
「掲示板の掲出物は管理係が記録しております。相談窓口の受理日は、受理報告書が図書室に回覧されるためです」
嘘ではない。管理係の業務として、学園内の文書は目を通す機会がある。その中に含まれる日付を覚えていたのは、前世の図書館員としての習慣だ。
「あたしが聞きたいのは、なんで日付の一致に気づいたか、ってことよ」
「日付を並べただけです。一致に意味があるかどうかは、私には判断がつきません」
ヴィオラが椅子の背にもたれた。腕を組み直して、天井を見上げた。
「……状況証拠にもならないわね、それだけじゃ」
「はい。日付の一致は偶然かもしれません」
「でも、偶然にしては出来すぎてる」
私は何も答えなかった。それ以上は管理係の仕事の範囲を超える。
ヴィオラが天井から視線を戻し、私を見た。さっきとは明らかに違う目だった。敵意が消えたわけではない。だが、別の感情が混じっていた。
「あんた、変なやつね」
「恐れ入ります」
「褒めてないわよ」
図書室の扉が開いた。
二人の令嬢が入ってきた。ヴィオラの取り巻きだ。昼食会でもヴィオラの近くにいた顔だった。二人とも侯爵家に連なる下位貴族の令嬢で、ヴィオラの周辺にいることで社交上の立場を保っている類の人間だ。
二人は私を見ると、あからさまに顔をしかめた。
「ヴィオラ様、こんなところにいらしたんですか。それと……なぜこの方が」
一人が私を指して言った。
「子爵風情が侯爵令嬢に近づくなんて、身の程を知ったらいかがかしら」
もう一人が続けた。声は廊下まで聞こえそうなほど大きかった。
ヴィオラが口を開きかけた。だが、その前に私は立ち上がっていた。
「お二方、こちらは図書室です」
声を荒げる必要はなかった。管理係としての、いつもの声で言った。
「図書室は全生徒に開かれた場所です。閲覧・学習以外の目的でのご利用はお控えいただいております。ご用件がないようでしたら、他の生徒の妨げになりますので」
二人が一瞬、言葉を失った。
管理係の注意だ。身分に関係なく、図書室の規則を伝えている。子爵令嬢が侯爵家の関係者に意見しているのではない。図書室管理係が、利用規則に反する行為を注意しているだけだ。
「……何よ、あんた」
「図書室管理係です」
同じ答えを、同じ声で返した。中庭でカティアに言ったのと、同じ言葉だった。
二人は私を睨んだが、図書室の中で騒ぎを大きくするのは得策ではないと判断したのだろう。舌打ちを残して、出ていった。
扉が閉まった。
ヴィオラが、妙な顔をしていた。
「……あんた、度胸あるわね」
「図書室の規則をお伝えしただけです」
「あの二人、あんたのこと覚えるわよ。面倒なことになるかもしれないけど」
「存じております」
侯爵家に連なる令嬢に注意した子爵令嬢。嫌がらせの対象としては十分だろう。だが図書室の中で管理係の業務として行った注意に、身分上の問題はない。
ヴィオラが立ち上がった。
「あたしは、あんたを信用してない」
「はい」
「でも、聖女の犬でもなさそうだってことは分かった」
それだけ言って、ヴィオラは図書室を出ていった。扉が閉まる音が、静かな室内に響いた。
敵対から、保留へ。
ヴィオラはまだ私を信用していない。でも、害のない人間として認識を改めた。それで十分だ。それ以上の関係は必要ない。
カウンターに戻り、目録帳を開いた。
今日は閉架書庫の奥の棚を確認する予定だった。手を動かしていれば、余計なことを考えずに済む。
ペンを取ろうとしたとき、図書室の隅に気配を感じた。
書架の影に、人がいる。
いつからいたのだろう。ヴィオラとの会話の間、ずっとそこにいたのか。
深い青の目が、書架の隙間からこちらを見ていた。
ギルベルト・ヴァイス。
今日はいないと思っていたのに。奥の席ではなく、書架の陰にいた。
彼は私と目が合うと、かすかに口元を動かした。何か言いかけたように見えた。
「……いや。何でもない」
それだけ言って、いつもの席に向かった。鞄から本を出し、座る。いつもの動作だ。
でも、その前に一瞬だけ、彼はこちらを振り返った。
「君、気づいていないだろうけど——」
言葉が途中で止まった。首を振って、本を開いた。
何に気づいていないのか、聞くべきだったかもしれない。でも、聞かなかった。聞けば、また一歩、モブでなくなる。
カウンターに座り直し、目録帳を開いた。ペンを手に取った。
巻き込まれたのか。それとも自分から踏み込んだのか。
もうわからなくなっていた。ハンカチを拾い、日付を並べ、図書室の規則を口にしただけ。どれも大したことではない。
でも、その「大したことではない」行動が、少しずつ何かを変え始めている気がした。
気のせいだと思いたい。
窓の外に目を向けた。夕暮れの空が、薄い茜色に染まっている。いつもの放課後の色だ。
奥の席でギルベルトがページをめくる音が聞こえた。
静かな図書室。いつもの匂い。いつもの光。
でも今日は、少しだけ空気が違った。何が変わったのかはわからない。わからないけれど、昨日と同じではなかった。
目録帳に視線を落とした。分類番号を書き写す手が、いつもより少しだけ遅かった。




