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【第4章追加!】モブ令嬢に転生したのでモブらしく生きていたら、なぜか聖女の化けの皮が剥がれモブでは済まなくなりました  作者: 月雅
第4章

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第8話「前夜の灯」

書斎の窓から、冬の夕暮れが見えた。


橙色ではなかった。冬の空は青みがかった灰色で、日が沈む場所だけが薄く赤らんでいた。子爵家の書斎から見る、いつもの景色。明日の今頃、この景色を見ることはない。


婚姻式の前日。


明日から、私は宰相家の人間になる。


子爵家を離れるわけではない。実家との縁が切れるわけでもない。だが、生活の拠点が変わる。寝起きする場所が変わる。朝目を覚ます部屋が変わる。


この書斎で過ごす最後の夜だった。


机の上には何もなかった。報告書の写しは全て宰相府に移してある。施行細則の関連書類も。蔵書目録の控えも。再審の頃に整理した記録の一部も。


全て、新しい場所に運んだ。


残っているのは、空の机と、椅子と、窓と、本棚だった。本棚にはまだ何冊か残っている。子爵家の帳簿の古い版。学園時代に使った教本。図書室の管理手順を書き写した手帳。


手帳を手に取った。


革の表紙。使い込んで角が丸くなっている。学園の図書室で蔵書を管理していたとき、毎日開いていた手帳。蔵書の分類番号。配架の規則。貸出記録の書式。


あの頃は、これが全てだった。


図書室の裏方。目立たない存在。攻略対象とも悪役令嬢とも関わらず、イベントにも巻き込まれず、静かに本を並べ替えていた。


モブだった。


そのまま、モブとして卒業するはずだった。子爵家に戻り、父の帳簿を手伝い、地味に暮らすはずだった。


だが、手紙が来た。


ギルベルトからの手紙。母の冤罪について調べてほしい、と。あの一通の手紙が、全てを変えた。


手帳を本棚に戻した。


この手帳は、ここに置いていく。子爵家の本棚に。始まりの場所に。


書斎の扉を叩く音がした。


「入ってもよいか」


父の声だった。


「はい」


扉が開いた。父が立っていた。子爵家の当主。五十代。白髪が増えた。再審の頃よりも少しだけ痩せたように見えた。


父は書斎を見回した。空になった机。残り少ない本棚。


「片付いたな」


「はい。荷物は全て宰相府に送りました」


「そうか」


父が椅子に座った。書斎にある予備の椅子。来客用ではなく、私が帳簿の作業をするときに使っていた古い椅子だった。


しばらく、沈黙があった。


父は言葉の少ない人だった。子爵家の当主として必要なことは話すが、それ以上のことは口にしない。感情を見せることも少ない。


「お前が宰相家に行っても、ここはお前の家だ」


短い言葉だった。


父らしい言葉だった。感情を込めない、事実を述べるだけの声。だが、その事実の中に、全てがあった。


ここはお前の家だ。


名前が変わっても。住む場所が変わっても。宰相家の一員になっても。


「はい」


答えた。声が震えた。


泣くまいと思った。明日は婚姻式だ。目が腫れていたら、カティアに叱られる。


だが、涙が一筋、頬を伝った。


父は何も言わなかった。娘が泣いているのを見ても、慰めの言葉はなかった。ただ、椅子に座って、窓の外の灰色の空を見ていた。


それが父の優しさだった。見ていること。そこにいること。言葉にしないこと。


しばらくの間、二人で黙って座っていた。


子爵家の書斎。小さな部屋。帳簿と蔵書目録と、再審の記録を整理した部屋。全てがここから始まった場所。


父が立ち上がった。


「明日、堂々と行ってこい」


それだけ言って、書斎を出ていった。


扉が閉まった。


足音が廊下を遠ざかっていく。子爵家の当主の足音。静かで、地味で、だけど確かな足音。


机に戻った。


空の机の上に、手紙が三通置いてあった。夕方に届いたものだった。


一通目。カティアからの手紙。


「明日は最高の日になるわ。何も心配しないで。あなたがあなたでいればいい。それだけで十分。——カティア」


カティアらしい手紙だった。短くて、的確で、温かかった。


二通目。ヴィオラからの手紙。


「泣くのは式の後にしなさい。化粧が崩れるから。——冗談よ。おめでとう。ヴィオラ」


ヴィオラらしかった。笑った。涙の跡が乾いていないのに、笑った。


三通目。エレーヌからの手紙。


「心よりお祝い申し上げます。ロゼリアさんの報告書が、制度改革の基礎になったことを、神殿の中にいる者として誇りに思います。どうか、幸せな一日をお過ごしください。——エレーヌ・ベルクハルト」


エレーヌらしい手紙だった。丁寧で、静かで、事実に基づいた祝福。報告書のことに触れているのがエレーヌだった。神殿内部の情報を何度も届けてくれた友人。彼女がいなければ、報告書は完成しなかった。


三通の手紙を、順番に机の上に並べた。


そして、四通目。


封筒は小さかった。宰相府の便箋ではなく、私的な便箋。ギルベルトの筆跡。


封を開けた。


一行だけだった。


「明日、迎えに行く」


短い言葉。ギルベルトらしい言葉。


迎えに行く。


子爵家に。私のいる場所に。そこから、宰相家へ。


手紙を閉じた。


四通の手紙を机の上に並べたまま、窓を見た。


冬の空はもう暗くなっていた。星が見えた。雲が切れて、冬の星座が一つ二つ、光っていた。


明日の挨拶の言葉を、最後にもう一度確認した。


式次第の草案。ギルベルトの母と何度も推敲した言葉。宰相家の一員としての最初の挨拶。自分の言葉で、自分の声で。


言葉は決まっていた。


覚悟も決まっていた。


子爵家の書斎。最後の夜。灯りを消す前に、部屋を見回した。


空の机。残った本棚。古い椅子。窓の外の冬の星。


「ロゼリア・トーレス」という名前のまま、新しい家族のもとへ行く。


明日、名前が変わる。


でも、自分は変わらない。


灯りを消した。


暗い書斎の中で、窓の外の星だけが光っていた。


目を閉じた。


明日は、新しい朝だ。

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