第8話「前夜の灯」
書斎の窓から、冬の夕暮れが見えた。
橙色ではなかった。冬の空は青みがかった灰色で、日が沈む場所だけが薄く赤らんでいた。子爵家の書斎から見る、いつもの景色。明日の今頃、この景色を見ることはない。
婚姻式の前日。
明日から、私は宰相家の人間になる。
子爵家を離れるわけではない。実家との縁が切れるわけでもない。だが、生活の拠点が変わる。寝起きする場所が変わる。朝目を覚ます部屋が変わる。
この書斎で過ごす最後の夜だった。
机の上には何もなかった。報告書の写しは全て宰相府に移してある。施行細則の関連書類も。蔵書目録の控えも。再審の頃に整理した記録の一部も。
全て、新しい場所に運んだ。
残っているのは、空の机と、椅子と、窓と、本棚だった。本棚にはまだ何冊か残っている。子爵家の帳簿の古い版。学園時代に使った教本。図書室の管理手順を書き写した手帳。
手帳を手に取った。
革の表紙。使い込んで角が丸くなっている。学園の図書室で蔵書を管理していたとき、毎日開いていた手帳。蔵書の分類番号。配架の規則。貸出記録の書式。
あの頃は、これが全てだった。
図書室の裏方。目立たない存在。攻略対象とも悪役令嬢とも関わらず、イベントにも巻き込まれず、静かに本を並べ替えていた。
モブだった。
そのまま、モブとして卒業するはずだった。子爵家に戻り、父の帳簿を手伝い、地味に暮らすはずだった。
だが、手紙が来た。
ギルベルトからの手紙。母の冤罪について調べてほしい、と。あの一通の手紙が、全てを変えた。
手帳を本棚に戻した。
この手帳は、ここに置いていく。子爵家の本棚に。始まりの場所に。
書斎の扉を叩く音がした。
「入ってもよいか」
父の声だった。
「はい」
扉が開いた。父が立っていた。子爵家の当主。五十代。白髪が増えた。再審の頃よりも少しだけ痩せたように見えた。
父は書斎を見回した。空になった机。残り少ない本棚。
「片付いたな」
「はい。荷物は全て宰相府に送りました」
「そうか」
父が椅子に座った。書斎にある予備の椅子。来客用ではなく、私が帳簿の作業をするときに使っていた古い椅子だった。
しばらく、沈黙があった。
父は言葉の少ない人だった。子爵家の当主として必要なことは話すが、それ以上のことは口にしない。感情を見せることも少ない。
「お前が宰相家に行っても、ここはお前の家だ」
短い言葉だった。
父らしい言葉だった。感情を込めない、事実を述べるだけの声。だが、その事実の中に、全てがあった。
ここはお前の家だ。
名前が変わっても。住む場所が変わっても。宰相家の一員になっても。
「はい」
答えた。声が震えた。
泣くまいと思った。明日は婚姻式だ。目が腫れていたら、カティアに叱られる。
だが、涙が一筋、頬を伝った。
父は何も言わなかった。娘が泣いているのを見ても、慰めの言葉はなかった。ただ、椅子に座って、窓の外の灰色の空を見ていた。
それが父の優しさだった。見ていること。そこにいること。言葉にしないこと。
しばらくの間、二人で黙って座っていた。
子爵家の書斎。小さな部屋。帳簿と蔵書目録と、再審の記録を整理した部屋。全てがここから始まった場所。
父が立ち上がった。
「明日、堂々と行ってこい」
それだけ言って、書斎を出ていった。
扉が閉まった。
足音が廊下を遠ざかっていく。子爵家の当主の足音。静かで、地味で、だけど確かな足音。
机に戻った。
空の机の上に、手紙が三通置いてあった。夕方に届いたものだった。
一通目。カティアからの手紙。
「明日は最高の日になるわ。何も心配しないで。あなたがあなたでいればいい。それだけで十分。——カティア」
カティアらしい手紙だった。短くて、的確で、温かかった。
二通目。ヴィオラからの手紙。
「泣くのは式の後にしなさい。化粧が崩れるから。——冗談よ。おめでとう。ヴィオラ」
ヴィオラらしかった。笑った。涙の跡が乾いていないのに、笑った。
三通目。エレーヌからの手紙。
「心よりお祝い申し上げます。ロゼリアさんの報告書が、制度改革の基礎になったことを、神殿の中にいる者として誇りに思います。どうか、幸せな一日をお過ごしください。——エレーヌ・ベルクハルト」
エレーヌらしい手紙だった。丁寧で、静かで、事実に基づいた祝福。報告書のことに触れているのがエレーヌだった。神殿内部の情報を何度も届けてくれた友人。彼女がいなければ、報告書は完成しなかった。
三通の手紙を、順番に机の上に並べた。
そして、四通目。
封筒は小さかった。宰相府の便箋ではなく、私的な便箋。ギルベルトの筆跡。
封を開けた。
一行だけだった。
「明日、迎えに行く」
短い言葉。ギルベルトらしい言葉。
迎えに行く。
子爵家に。私のいる場所に。そこから、宰相家へ。
手紙を閉じた。
四通の手紙を机の上に並べたまま、窓を見た。
冬の空はもう暗くなっていた。星が見えた。雲が切れて、冬の星座が一つ二つ、光っていた。
明日の挨拶の言葉を、最後にもう一度確認した。
式次第の草案。ギルベルトの母と何度も推敲した言葉。宰相家の一員としての最初の挨拶。自分の言葉で、自分の声で。
言葉は決まっていた。
覚悟も決まっていた。
子爵家の書斎。最後の夜。灯りを消す前に、部屋を見回した。
空の机。残った本棚。古い椅子。窓の外の冬の星。
「ロゼリア・トーレス」という名前のまま、新しい家族のもとへ行く。
明日、名前が変わる。
でも、自分は変わらない。
灯りを消した。
暗い書斎の中で、窓の外の星だけが光っていた。
目を閉じた。
明日は、新しい朝だ。




