第7話「招かれざる声」
招待状の封蝋を押したのは、三日前のことだった。
宰相府の書記室で、ギルベルトの母と共に最終確認した招待客リスト。公爵家、侯爵家、伯爵家、王府高官、神殿の要職者。そして子爵家は上席配置。全ての名前を確認し、宰相の承認を経て、招待状が発送された。
婚姻式まで、あと一ヶ月と少し。
招待状が届いた翌日から、社交界が動き始めた。
最初にカティアが教えてくれた。
「フェルトハイム伯爵夫人が、婚姻式への列席を拒否したわ」
カティアの声は落ち着いていた。だが、その落ち着きの奥に、注意を促す硬さがあった。
フェルトハイム伯爵夫人。社交界の古参。六十代。先代の王妃の時代から王都の社交界で影響力を持つ人物だった。伯爵家としての格は高くないが、社交界での発言力は侯爵家に匹敵する。長年の人脈と、社交の場での振る舞いによって築かれた権威だった。
「理由は」
「公然と言っている。『子爵家の娘に宰相家の格式は務まらない。このような婚姻に列席することは、社交界の秩序を乱すことに加担するに等しい』と」
子爵家の娘。
その言葉は、もう何度も聞いた。婚約が公表される前から、陰で囁かれていた言葉。だが、婚約公表後は表立って口にする者はいなくなっていた。宰相が認め、王太子が報告書を受理した以上、反対する根拠がなかったからだ。
それが今、再び表に出た。
「他の貴族への影響は」
「既に数名が同調している。フェルトハイム夫人と親しい伯爵家が二家、男爵家が一家。不参加の意向を示している」
四家。招待客全体から見れば少数だ。だが、社交界での波紋は数では測れない。フェルトハイム伯爵夫人が公然と拒否し、それに同調する者が現れたという事実そのものが、社交界に影を落とす。
婚姻式は宰相家の威信に関わる。列席者が欠けることは、宰相家への敬意の欠如と受け取られる可能性がある。
ギルベルトに伝えた。
宰相府の廊下。短い時間だった。
「フェルトハイム伯爵夫人の件は聞いている」
ギルベルトの声は硬かった。怒りを抑えている声だった。
「宰相府として対応する方法はある。父に相談すれば、政治的な圧力をかけることもできる」
「待ってください」
ギルベルトの言葉を遮った。
「社交界の問題は、社交界で解決すべきだと思います」
ギルベルトが私を見た。
「宰相府が動けば、政治権力で社交界を黙らせたと見なされます。それは、伯爵夫人の批判を裏付けることになる。『宰相家の力で無理に押し通した』と」
ギルベルトが黙った。考えている顔だった。
「ロゼリアの言う通りだ。だが、このまま放置すれば、同調する者が増える可能性がある」
「カティアとヴィオラに相談します。社交界側での対応を」
ギルベルトが頷いた。だが、目の奥に不安があった。先回りしたい気持ちを、抑えている顔だった。
「分かった。だが、状況が悪化するようなら、宰相府としても動く」
「はい」
カティアの屋敷。公爵家の応接間。
カティアとヴィオラが待っていた。
「状況を整理するわね」
カティアが紅茶のカップを置いた。公爵令嬢としての冷静な分析が始まった。
「フェルトハイム伯爵夫人の影響力は、社交界の中高年層に集中している。若い世代への影響は限定的。だが、婚姻式の列席者には中高年層が多い。宰相家の茶会に出席する層と重なる」
「つまり、婚姻式の列席者の中に、動揺している人がいる可能性がある」
「ええ。今は四家だけど、あと数家が同調すれば、流れが変わるかもしれない」
ヴィオラが腕を組んだ。
「直接反論するのは悪手よ。伯爵夫人は社交界の老練な人。口論で勝てても、泥仕合になれば宰相家の品位が下がる」
「ヴィオラの言う通り」
カティアが頷いた。
「正面からは行かない。婚姻式の準備を着実に進める。格式を整え、招待状を受けた家々が出席する理由を強くする。それが一番の対応よ」
正しかった。だが、それだけで足りるかどうかは分からなかった。
「もう一つ」
カティアの声が変わった。少し低くなった。
「王太子殿下の動向を確認させて」
「王太子殿下の」
「婚姻式の招待状は、王家にも届いている。王太子殿下が列席されるかどうかは、まだ公式には表明されていない。もし殿下が列席を表明されれば、状況は一変するわ」
王太子の列席。
報告書を公式に受理した人物。制度改革を王の裁可に付した人物。その人が婚姻式に列席するということは、ロゼリア個人への支持ではなく、制度改革への評価の延長として解釈される。
だが、王太子の判断を左右することは、私たちにはできない。
「確認だけする。殿下の判断は殿下のもの。働きかけはしない」
カティアの言葉に頷いた。
待つしかなかった。
三日後。
宰相府に公式の文書が届いた。
アレクシス・ルーヴェン王太子が、宰相家の婚姻式への列席を公式に表明した。
文書は宰相府を通じて社交界に通達された。王太子の列席。それは、宰相家の婚姻式が王家の公式な支持を受けていることを意味していた。
報告書の公式受理者として。制度改革の推進者として。王太子が列席を表明した理由は、政治的な支持の延長だった。
その通達が社交界に届いた日、状況は動いた。
フェルトハイム伯爵夫人から、宰相府に書状が届いた。
「先日の不参加の意向を撤回し、謹んで列席させていただきたく存じます」
態度を翻した。
王太子が列席する婚姻式に不参加であることは、王家への不敬と見なされる可能性がある。伯爵夫人はその政治的リスクを即座に判断し、態度を変えた。
同調していた三家も、同日中に列席の意向を示した。
カティアが言った。
「王太子殿下の列席は、政治的支援であると同時に、ロゼリアの報告書への評価の延長よ。殿下は報告書を受理し、制度改革を推進した。その作成者の婚姻式に列席することは、制度改革の正当性を改めて示す行為でもある」
冷静な分析だった。カティアらしかった。
ヴィオラが笑った。
「伯爵夫人の変節は、もう社交界中に知れ渡っているわよ。不参加を公言しておいて、王太子の列席が決まった途端に列席を申し出た。あの方の信用は、自分で壊したのよ」
因果応報。
伯爵夫人は、自分の判断で不参加を公言し、自分の判断で態度を翻した。その変節を社交界が見ていた。信用の失墜は、誰かが仕組んだものではなく、自らの行動の結果だった。
子爵家の書斎に戻った夜。
椅子に座って、天井を見た。
守られている。
王太子の列席。カティアの分析。ヴィオラの社交界での対応。ギルベルトの抑制。宰相家の格式。
多くの人の力が、私を守っている。
でも、守られるだけではいけない。
その思いは、ずっとあった。報告書を宰相府に守られたとき。クラウスに公式に評価されたとき。そして今、王太子の列席で社交界の問題が解消されたとき。
自分の力で立ちたい。その願いは変わらない。
だが、一人で立つことと、守られることは、矛盾しないと学んだ。ギルベルトの母が教えてくれた。クラウスが示してくれた。カティアとヴィオラが支えてくれた。
王太子の支援に感謝する。社交界の問題が解消されたことに安堵する。
その上で、婚姻式の準備を着実に進める。自分にできることをする。宰相家の一員として、最初の挨拶を準備する。自分の言葉で、自分の声で。
守られた場所で、自分の足で立つ。
それが、今の私にできる最善のことだった。
机の上に、婚姻式の式次第の草案が置いてあった。ギルベルトの母と一緒に作った案。挨拶の言葉はまだ空白だった。
明日から、その言葉を考える。
宰相家の一員として。ロゼリア・トーレスとして。最後にこの名前で立つ場所で、何を言うか。
窓の外に、冬の星が瞬いていた。
婚姻式まで、あと少し。




