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【第4章追加!】モブ令嬢に転生したのでモブらしく生きていたら、なぜか聖女の化けの皮が剥がれモブでは済まなくなりました  作者: 月雅
第4章

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第6話「立場と名前」

また、あの視線だ。


宰相府の廊下を歩くたびに感じる。すれ違う官吏たちの目。婚約公表の直後は好奇の目だった。施行細則策定委員会に同席するようになってからは、警戒の目に変わった。


そして最近、もう一つ別の種類の目が加わっていた。


軽視の目。


施行細則の策定が進む中、私は宰相府の公務に補佐的に参加する場面が増えていた。会議の記録を確認する。報告書との整合性を検証する。書類の文言を精査する。報告書作成者としての助言の延長にある仕事だった。


だが、宰相府の中には、それを快く思わない人間がいた。


最初に気づいたのは、書類の受け渡しのときだった。


施行細則の修正案を確認するため、宰相府の書記室に立ち寄った。担当の下級官吏に書類を求めた。


「施行細則第三条の修正案を確認させていただきたいのですが」


官吏は私を見た。三十代の男。宰相府に十年以上勤める中堅の官吏だった。


「トーレス嬢ですね」


嬢。


婚約者としての敬称ではなく、子爵令嬢としての呼び方だった。間違いではない。婚姻前であれば、正式にはトーレス嬢で正しい。だが、宰相府の中で宰相が婚約を認めた相手に対して、その呼び方を選ぶことには意味があった。


「書類は、宰相府の正式な委員にお渡しすることになっております。助言者への直接の書類提供は、手続き上は……」


言葉を濁した。だが、意味は明確だった。婚約者には権限がない。助言者に書類を渡す義務はない。


手続き上は、正しかった。施行細則策定委員会の助言者である私に、書類を直接渡す規定は確かに存在しない。通常は委員会の場で共有される。


だが、これまでは問題なく渡されていた。宰相が同席を認め、報告書作成者としての関与が公式に認められた後は、書類の確認も慣例として受け入れられていた。


それが、今日は拒まれた。


「承知しました。委員会の場で確認いたします」


引き下がった。感情を見せなかった。子爵令嬢として、宰相府の官吏に対して声を荒らげることはしない。


だが、その官吏の目を見た。軽視。それだけではなかった。


確認。自分の立場を確認している目だった。婚約者がどこまで動けるのか。拒否したとき、何が起きるのか。それを測っている目だった。


ヴィオラに話した。


宰相府の近くの茶房。カティアは公爵家の用事で不在だった。ヴィオラが代わりに来てくれた。


「書類を渡さなかった」


「ええ。手続き上は間違っていないの。でも、これまでは問題なく渡されていたのに、突然拒否された」


ヴィオラが紅茶のカップを置いた。


「陰で何か言っているのね」


「おそらく。『婚約者には権限がない』と」


「事実ではあるわ。婚姻前の婚約者に、宰相府の公式な権限はない。でも、それを今さら持ち出すのは嫌がらせよ」


ヴィオラは率直だった。侯爵令嬢としての判断が速い。


「どうするの。自分で抗議する?」


考えた。


ルドヴィクが私の名前を無断で使ったとき、私は自分で面会を申し入れて直接対処した。あのときは、自分の名前を守るために自分で動く必要があった。


だが、今は状況が違う。


私は宰相家の婚約者だ。宰相府の中で私が個人として抗議すれば、「婚約者が権限を主張している」と受け取られる。ルドヴィクのときとは、立場が違う。


「自分で動くのは、今回は難しい」


「分かっているじゃない」


ヴィオラが小さく笑った。


「じゃあ、どうする」


「ギルベルトに相談しようかと思ったけれど」


「ギルベルトが動けば、身内贔屓になる」


「そう。だから、迷っている」


ヴィオラが腕を組んだ。考え込む顔。


「クラウス様は」


「お兄様?」


「あの方なら、宰相家の長男として、宰相府内の人事に対して発言する立場にある。弟の婚約者を庇うのではなく、宰相府の秩序として発言できる」


クラウス。


「弟を頼む」と言ってくれた人。だが、あれは私的な場での言葉だった。宰相府の公務の場で、クラウスが私のために動くかどうかは分からない。


分からないが、選択肢は限られていた。


その判断を下す前に、事態は動いた。


施行細則策定委員会の次の会合でのことだった。


会合の冒頭、クラウスが出席していた。


通常、クラウスはこの委員会には出席しない。宰相府の正式な補佐官として別の業務を担当していた。だが、今日は宰相の代理として出席していた。


会合が始まった。議題は施行細則の最終調整。監査体制の運用規則。


議論の途中、クラウスが発言した。


「一点、確認しておきたいことがある」


会議室が静まった。宰相家の長男の発言。公式な場での、公式な声。


「施行細則の策定にあたり、報告書作成者の助言は不可欠なものとして宰相府が認めている。報告書作成者であるトーレス嬢の補佐的関与は、宰相府の業務として正式に位置づけられたものだ」


クラウスの目が、テーブルを見渡した。宰相府の官吏たちの顔を、一人ずつ見た。


「報告書作成者としてのトーレス嬢の助言は、宰相府の業務に不可欠だ。この認識を、改めて共有しておく」


短い発言だった。だが、その意味は明確だった。


クラウスは私の名前を出して、公式に評価した。宰相家の長男として。宰相府の補佐官として。弟の婚約者を庇ったのではなく、報告書作成者の業務上の立場を明確にした。


会議室の空気が変わった。


書記室の下級官吏の顔が、わずかに青ざめたのが見えた。会議に出席していた。クラウスの発言を聞いていた。


会合の後、ギルベルトから聞いた。


「あの官吏の態度が上司に報告されたらしい。クラウスの発言の後、すぐに」


「報告されたのですか」


「宰相府の中で、宰相が認めた人物の補佐的関与を妨害する行為は、宰相府の業務命令に対する不服従と見なされる。上司がそう判断した」


「処分は」


「配置転換。書記室から地方の出先機関への異動。実質的な左遷だ」


左遷。


私が望んだことではなかった。抗議すらしていなかった。クラウスの発言が公式な場でなされ、上司が内部で判断した結果だった。


「お兄様に、お礼を言うべきでしょうか」


ギルベルトが少し考えた。


「兄は、お礼を言われることを望んでいないと思う。宰相府の秩序の問題として動いた。私的な好意ではない」


「でも」


「ただ」


ギルベルトが小さく笑った。


「兄なりの、不器用な支持だとは思う」


不器用な支持。


「弟を頼む」と言った人。母の帰還の日に涙を見せた人。宰相家の長男として、表情を見せずに正論を述べる人。


その人が、公式の場で私の名前を出して評価した。


子爵家の書斎に戻った夜。


椅子に座って、天井を見上げた。


お兄様に助けられた。


その事実が、胸の中で静かに温かかった。


報告書の批判を宰相府が守ってくれたとき、私は「自分で守りたかった」と思った。宰相家の力で守られることへの複雑な感情があった。


だが、今日は違った。


クラウスの発言は、私を庇う言葉ではなかった。報告書作成者の業務を正当に評価する言葉だった。弟の婚約者だからではなく、宰相府の業務に不可欠だからだと、公式に述べた。


それは、能力への評価だった。


そして同時に、家族としての支持だった。


二つは矛盾しない。ギルベルトの母が教えてくれた通りだった。家族の力を借りることは弱さではない。クラウスが公式に評価したのは、私の業務上の貢献であり、それを支持したのは家族としての信頼だった。


消極的容認から、積極的な支持へ。


クラウスとの関係が、今日、一段階進んだ。


窓の外に冬の月が見えた。白い光が書斎の机を照らしていた。


家族になりつつある。


宰相家の一員に、少しずつ、なりつつある。


その実感が、冬の月の光のように、静かに胸を満たしていた。

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― 新着の感想 ―
「不器用な支持」、深いなぁ……
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