第6話「立場と名前」
また、あの視線だ。
宰相府の廊下を歩くたびに感じる。すれ違う官吏たちの目。婚約公表の直後は好奇の目だった。施行細則策定委員会に同席するようになってからは、警戒の目に変わった。
そして最近、もう一つ別の種類の目が加わっていた。
軽視の目。
施行細則の策定が進む中、私は宰相府の公務に補佐的に参加する場面が増えていた。会議の記録を確認する。報告書との整合性を検証する。書類の文言を精査する。報告書作成者としての助言の延長にある仕事だった。
だが、宰相府の中には、それを快く思わない人間がいた。
最初に気づいたのは、書類の受け渡しのときだった。
施行細則の修正案を確認するため、宰相府の書記室に立ち寄った。担当の下級官吏に書類を求めた。
「施行細則第三条の修正案を確認させていただきたいのですが」
官吏は私を見た。三十代の男。宰相府に十年以上勤める中堅の官吏だった。
「トーレス嬢ですね」
嬢。
婚約者としての敬称ではなく、子爵令嬢としての呼び方だった。間違いではない。婚姻前であれば、正式にはトーレス嬢で正しい。だが、宰相府の中で宰相が婚約を認めた相手に対して、その呼び方を選ぶことには意味があった。
「書類は、宰相府の正式な委員にお渡しすることになっております。助言者への直接の書類提供は、手続き上は……」
言葉を濁した。だが、意味は明確だった。婚約者には権限がない。助言者に書類を渡す義務はない。
手続き上は、正しかった。施行細則策定委員会の助言者である私に、書類を直接渡す規定は確かに存在しない。通常は委員会の場で共有される。
だが、これまでは問題なく渡されていた。宰相が同席を認め、報告書作成者としての関与が公式に認められた後は、書類の確認も慣例として受け入れられていた。
それが、今日は拒まれた。
「承知しました。委員会の場で確認いたします」
引き下がった。感情を見せなかった。子爵令嬢として、宰相府の官吏に対して声を荒らげることはしない。
だが、その官吏の目を見た。軽視。それだけではなかった。
確認。自分の立場を確認している目だった。婚約者がどこまで動けるのか。拒否したとき、何が起きるのか。それを測っている目だった。
ヴィオラに話した。
宰相府の近くの茶房。カティアは公爵家の用事で不在だった。ヴィオラが代わりに来てくれた。
「書類を渡さなかった」
「ええ。手続き上は間違っていないの。でも、これまでは問題なく渡されていたのに、突然拒否された」
ヴィオラが紅茶のカップを置いた。
「陰で何か言っているのね」
「おそらく。『婚約者には権限がない』と」
「事実ではあるわ。婚姻前の婚約者に、宰相府の公式な権限はない。でも、それを今さら持ち出すのは嫌がらせよ」
ヴィオラは率直だった。侯爵令嬢としての判断が速い。
「どうするの。自分で抗議する?」
考えた。
ルドヴィクが私の名前を無断で使ったとき、私は自分で面会を申し入れて直接対処した。あのときは、自分の名前を守るために自分で動く必要があった。
だが、今は状況が違う。
私は宰相家の婚約者だ。宰相府の中で私が個人として抗議すれば、「婚約者が権限を主張している」と受け取られる。ルドヴィクのときとは、立場が違う。
「自分で動くのは、今回は難しい」
「分かっているじゃない」
ヴィオラが小さく笑った。
「じゃあ、どうする」
「ギルベルトに相談しようかと思ったけれど」
「ギルベルトが動けば、身内贔屓になる」
「そう。だから、迷っている」
ヴィオラが腕を組んだ。考え込む顔。
「クラウス様は」
「お兄様?」
「あの方なら、宰相家の長男として、宰相府内の人事に対して発言する立場にある。弟の婚約者を庇うのではなく、宰相府の秩序として発言できる」
クラウス。
「弟を頼む」と言ってくれた人。だが、あれは私的な場での言葉だった。宰相府の公務の場で、クラウスが私のために動くかどうかは分からない。
分からないが、選択肢は限られていた。
その判断を下す前に、事態は動いた。
施行細則策定委員会の次の会合でのことだった。
会合の冒頭、クラウスが出席していた。
通常、クラウスはこの委員会には出席しない。宰相府の正式な補佐官として別の業務を担当していた。だが、今日は宰相の代理として出席していた。
会合が始まった。議題は施行細則の最終調整。監査体制の運用規則。
議論の途中、クラウスが発言した。
「一点、確認しておきたいことがある」
会議室が静まった。宰相家の長男の発言。公式な場での、公式な声。
「施行細則の策定にあたり、報告書作成者の助言は不可欠なものとして宰相府が認めている。報告書作成者であるトーレス嬢の補佐的関与は、宰相府の業務として正式に位置づけられたものだ」
クラウスの目が、テーブルを見渡した。宰相府の官吏たちの顔を、一人ずつ見た。
「報告書作成者としてのトーレス嬢の助言は、宰相府の業務に不可欠だ。この認識を、改めて共有しておく」
短い発言だった。だが、その意味は明確だった。
クラウスは私の名前を出して、公式に評価した。宰相家の長男として。宰相府の補佐官として。弟の婚約者を庇ったのではなく、報告書作成者の業務上の立場を明確にした。
会議室の空気が変わった。
書記室の下級官吏の顔が、わずかに青ざめたのが見えた。会議に出席していた。クラウスの発言を聞いていた。
会合の後、ギルベルトから聞いた。
「あの官吏の態度が上司に報告されたらしい。クラウスの発言の後、すぐに」
「報告されたのですか」
「宰相府の中で、宰相が認めた人物の補佐的関与を妨害する行為は、宰相府の業務命令に対する不服従と見なされる。上司がそう判断した」
「処分は」
「配置転換。書記室から地方の出先機関への異動。実質的な左遷だ」
左遷。
私が望んだことではなかった。抗議すらしていなかった。クラウスの発言が公式な場でなされ、上司が内部で判断した結果だった。
「お兄様に、お礼を言うべきでしょうか」
ギルベルトが少し考えた。
「兄は、お礼を言われることを望んでいないと思う。宰相府の秩序の問題として動いた。私的な好意ではない」
「でも」
「ただ」
ギルベルトが小さく笑った。
「兄なりの、不器用な支持だとは思う」
不器用な支持。
「弟を頼む」と言った人。母の帰還の日に涙を見せた人。宰相家の長男として、表情を見せずに正論を述べる人。
その人が、公式の場で私の名前を出して評価した。
子爵家の書斎に戻った夜。
椅子に座って、天井を見上げた。
お兄様に助けられた。
その事実が、胸の中で静かに温かかった。
報告書の批判を宰相府が守ってくれたとき、私は「自分で守りたかった」と思った。宰相家の力で守られることへの複雑な感情があった。
だが、今日は違った。
クラウスの発言は、私を庇う言葉ではなかった。報告書作成者の業務を正当に評価する言葉だった。弟の婚約者だからではなく、宰相府の業務に不可欠だからだと、公式に述べた。
それは、能力への評価だった。
そして同時に、家族としての支持だった。
二つは矛盾しない。ギルベルトの母が教えてくれた通りだった。家族の力を借りることは弱さではない。クラウスが公式に評価したのは、私の業務上の貢献であり、それを支持したのは家族としての信頼だった。
消極的容認から、積極的な支持へ。
クラウスとの関係が、今日、一段階進んだ。
窓の外に冬の月が見えた。白い光が書斎の机を照らしていた。
家族になりつつある。
宰相家の一員に、少しずつ、なりつつある。
その実感が、冬の月の光のように、静かに胸を満たしていた。




