第4話「素人の文書」
あの報告書は、本当に正しかったのだろうか。
施行細則策定委員会の第五回会合を翌日に控えた夜、子爵家の書斎で報告書の写しを読み返していた。何度目か分からない。だが、今夜は違う理由で読んでいた。
エレーヌからの手紙。三日前に届いたもの。
「保守層の残党司祭が、次回の審議の場で報告書を公然と批判する準備をしているようです。報告書の内容ではなく、作成者の資格を問う形になるとのことです」
作成者の資格。
つまり、私のことだ。
報告書の論理や事実に反論するのではなく、書いた人間の属性を攻撃する。子爵令嬢。学園の図書室の管理係。法学の専門教育を受けていない素人。
事実だった。全て事実だった。
私は素人だ。再審の記録を整理する中で制度の構造を学び、事実を並べて報告書にした。法学者が書いたものではない。神学者が書いたものでもない。
だが、王太子殿下が公式に受理した。制度改革の裁可がその報告書に基づいて下りた。
内容が正しいから受理されたのか。それとも、政治的に利用価値があったから受理されたのか。
その問いには答えない。答える必要がない。報告書の内容は事実に基づいている。事実は事実だ。作成者が誰であるかは、内容の正否とは関係ない。
だが、明日の審議の場では、その論理が通用しない可能性があった。
施行細則策定委員会の第五回会合。
合同庁舎の一室。いつもと同じテーブル。いつもと同じ顔ぶれ。
だが、今日は一人増えていた。
神殿側の代表の隣に、見慣れない司祭が座っていた。六十代。白髪交じりの髪。顔に深い皺が刻まれている。保守層の残党。エレーヌが警告していた人物だった。
会合が始まった。
議題は聖女の権限制限に関する施行細則案。報告書の第五章。最も政治的に敏感な部分だった。聖女の権限を儀礼的助言に限定し、政治的決定権を持たないとする条項。
宰相府の官吏が原案を読み上げた。
読み上げが終わった直後、白髪の司祭が手を挙げた。
「一つ確認したい」
声は穏やかだった。だが、穏やかさの中に硬い芯があった。
「この施行細則の根拠となっている報告書について」
来た。
身構えた。だが、表情には出さなかった。
「報告書の作成者は、トーレス子爵家の令嬢であると聞いている。法学の正規教育を受けた人物ではなく、神学にも通じていない。そのような人物が書いた文書を、聖女制度という王国の根幹に関わる制度改革の根拠とすることは、適切なのだろうか」
素人の文書。
エレーヌの警告通りだった。内容ではなく、作成者の属性への攻撃。
会議室が静まった。宰相府の官吏たちが私を見た。神殿監査局の監査官が目を伏せた。
反論したかった。
報告書の内容は事実に基づいている。検証可能な記録と証拠に基づいて構成されている。作成者の学歴や身分は、内容の正否とは無関係だ。
口を開こうとした。
だが、開けなかった。
ここで私が反論すれば、「宰相家の婚約者が、自分の報告書を守ろうとしている」と見なされる。公私混同の批判に、自ら根拠を与えることになる。
婚約者の立場と報告書作成者の立場。二つが重なっている以上、私が個人として反論することには政治的リスクがあった。
黙った。
手が震えた。テーブルの下で、拳を握った。
沈黙が長く感じられた。実際には、数秒だったのだろう。
「宰相府として見解を述べる」
宰相府の上席官吏が立ち上がった。宰相の代理として出席していた人物だった。
「当該報告書は、アレクシス・ルーヴェン王太子殿下の公式受理文書である。王太子殿下が内容を精査し、公式に受理し、枢密院の審議を経て王の裁可が下りた。報告書の正当性は、受理と裁可の手続きによって担保されている」
官吏の声は事務的だった。感情がなかった。だが、その事務的な声が、法的根拠を正確に示していた。
「報告書の作成者の属性を理由に、受理済み文書の正当性を否定する発言は、受理した王太子殿下の判断に対する疑義に相当する。王権に対する疑義は、施行細則の審議の場で扱う事項ではない」
白髪の司祭の顔が、わずかに強張った。
「なお」
官吏が続けた。
「過去に、報告書の内容を改竄した人物が罷免・拘束された前例がある。報告書の正当性を攻撃する行為が、結果としてどのような評価を受けるかは、過去の事例が示している」
ルドヴィクの前例。
名前は出さなかった。だが、この場にいる全員が理解した。裁判記録を改竄した改革派の司祭が罷免・拘束された事実。報告書に手を出した者がどうなったか。
白髪の司祭が黙った。
反論はなかった。
会合が再開された。聖女の権限制限に関する議論が続いた。白髪の司祭は、それ以降一言も発しなかった。
会合の後、エレーヌから短い手紙が届いた。
「例の司祭について。会合での発言が神殿内部で問題視されているようです。王権に対する疑義と受け取られたことが上層部に報告され、処分が検討されているとのことです」
処分。
神殿内部の人事権に基づく処分。宰相府が介入したのではなく、神殿自身が内部で判断した結果。報告書を「素人の文書」と批判したことが、王太子の公式受理文書への疑義と見なされ、王権軽視と受け取られた。
数日後、続報が来た。
「降格が決定しました。神殿内で孤立しています」
降格。
報告書を批判した司祭が、降格された。
私が望んだことではなかった。私が動いたわけでもなかった。宰相府が公式見解を示し、神殿が内部で判断した。それだけのことだった。
だが、結果として、報告書の正当性は守られた。
守られた。
私ではなく、宰相府の力で。
子爵家の書斎に戻った。
机の前に座った。報告書の写しがまだ広げてあった。
自分で守りたかった。
報告書は私が書いた。事実を集め、構造を分析し、一語一語を選んで書いた。その正当性を、自分の言葉で、自分の力で守りたかった。
だが、守ったのは宰相府だった。
宰相家の力。組織の力。王権の権威。
それらが私の代わりに報告書を守った。
自分の力と宰相家の力の境界線。どこまでが私の実力で、どこからが宰相家の庇護なのか。その線引きが、曖昧になっていく。
報告書を書いたのは私だ。それは事実だ。
だが、報告書が守られたのは、私の力ではない。それも事実だ。
二つの事実の間で、心が揺れた。
ギルベルトの母の言葉が浮かんだ。
「家族の力を借りることは、弱さではない」
まだ、その言葉を受け入れられていなかった。
頭では分かっている。一人で全てを守ることはできない。組織の力を借りることは、政治的に正しい判断だ。宰相府として公式見解を示す方が、私個人が反論するよりも効果が大きい。
だが、心の奥で、小さな声が言っていた。
自分の言葉で守りたかった、と。
報告書の写しを閉じた。
窓の外は暗かった。冬の夜。星が見えない曇り空。
明日、ギルベルトの母のところへ行く。婚姻式の準備の話がある。衣装の仮縫い。招待客リストの確認。式次第の相談。
宰相家の一員になる準備。
自分の力と家族の力。その境界線は、まだ見えない。
だが、ギルベルトの母なら、何か教えてくれるかもしれない。
家族の力を借りることの意味を。
書斎の灯りを消した。




