第3話「宰相の席」
「それでは、本日の議題に入ります」
宰相府の官吏が会合の開始を告げた声で、背筋が伸びた。
施行細則策定委員会の第三回会合。前回、前々回と同じ合同庁舎の一室。だが、今日は一つだけ違うことがあった。
私の席が変わっていた。
末席ではなかった。テーブルの中央寄り、宰相府側の列の一角。宰相が私の同席を正式に認めた結果だった。
助言者としての立場は変わらない。議決権もない。だが、席の位置が変わった。末席から中央寄りへ。それだけのことが、周囲の視線の質を変えていた。
宰相府の官吏四名。神殿監査局の監査官二名。神殿側の代表三名。
そして、私。
報告書作成者としての同席。宰相が認めた公務としての参加。
だが、周囲の目が見ているのは、宰相家の婚約者が会議に座っているという事実だった。
会合が始まった。
議題は前回の続き。監査体制の強化に関する施行細則案。報告書の第四章に該当する部分だった。
宰相府の官吏が原案を読み上げた。聖女候補の認定過程に監査官を配置し、手続きの適正性を検証する。監査官は宰相府と神殿の合同で任命し、独立した報告権限を持つ。
神殿側の代表が手を挙げた。前回と同じ人物だった。五十代の司祭。穏健派に分類される人物だが、神殿の自治権には敏感だった。
「監査官の独立した報告権限とは、具体的に何を指すのか。神殿内部の人事や祭祀に関する事項まで報告対象に含まれるのか」
「報告対象は、聖女候補の認定手続きに限定されます」
宰相府の官吏が答えた。
「では、認定手続きに関連する人事——たとえば、認定に関わる司祭の任命——は報告対象に含まれるのか、含まれないのか」
沈黙が落ちた。
この問いは、施行細則の核心に触れていた。監査の範囲をどこまで広げるか。認定手続きだけなのか、認定に関わる人員の選定まで含むのか。
報告書には、ここまで具体的なことは書いていなかった。報告書が提示したのは原則だった。施行細則は、その原則を具体的な線引きに落とし込む作業だ。
原則と具体の間に、隙間がある。その隙間を埋めるのが、この会合の仕事だった。
私は発言を求められるのを待った。助言者としての立場。自分から発言することもできるが、求められてから答える方が、この場では適切だった。
宰相府の官吏が私を見た。
「報告書作成者として、この点についてご見解を伺えますか」
「はい」
椅子から少し身を乗り出した。テーブルの上に報告書の写しがあった。
「報告書の第四章では、監査体制の目的を『手続きの透明性の確保』と定義しています。認定手続きの透明性を確保するためには、手続きそのものだけでなく、手続きに関与する人員の選定過程も検証可能である必要があります」
言葉を選びながら続けた。
「ただし、これは人事権の移管を意味するものではありません。司祭の任命権は神殿に属します。監査官が行うのは、任命過程に不正や恣意性がないかの確認であり、任命そのものへの介入ではありません」
神殿側の代表が私を見た。
「つまり、任命には口を出さないが、任命の過程は見る、ということか」
「はい。任命の結果ではなく、過程の適正性を確認する立場です」
代表が黙った。考えている顔だった。
「婚約者の意見を公式に採用するのは、公私混同ではないか」
別の声が上がった。神殿側の代表の隣に座っていた若い司祭だった。施行細則策定委員会の正式な委員ではなく、代表の随員として同席していた人物だった。
空気が変わった。
会議室の温度が下がったように感じた。宰相府の官吏たちの目が、一斉にその司祭に向いた。
公私混同。
その言葉は、私がこの席に座ったときから想定していたものだった。報告書作成者としての同席か、宰相家の婚約者としての介入か。その線引きを攻撃する言葉。
反論しようとした。だが、口を開く前に、別の声が響いた。
「この会合における発言は、発言者の立場に基づいて行われるものだ」
宰相の声だった。
宰相は会議室の上座に座っていた。施行細則策定委員会の全体を統括する立場として、要所で出席していた。今日がその日だった。
「トーレス嬢は、報告書作成者として本会合に同席している。報告書は王太子殿下の公式受理文書であり、その作成者の助言は公務として適切である。これは宰相府としての裁定だ」
宰相の声は静かだった。怒りも苛立ちもなかった。事実を述べている声。政治家として、法的根拠を示す声。
「公務としての助言と、私的な関係に基づく介入は、別の問題だ。本会合での発言は、すべて公務として記録される。異論があれば、宰相府に書面で提出されたい」
若い司祭が黙った。
神殿側の代表が、隣の司祭を一瞥した。制止の目だった。これ以上の発言を許さない目。
宰相の裁定が下った。
私の同席は、公務として正式に認められた。
会合はその後、二時間続いた。
監査体制の強化について、骨格案の修正が議論された。私は求められたときに発言し、求められないときは黙っていた。報告書の内容を補足し、施行細則の文言が報告書の趣旨から逸脱していないかを確認した。
それが、今の私にできることだった。
会合が終わった後、宰相府の廊下を歩いた。
宰相が私の前を歩いていた。長い廊下。宰相の背中は広かった。政治家の背中。何十年もこの廊下を歩いてきた人の背中。
宰相が足を止めた。振り返らなかった。
「報告書の内容は、施行細則に正確に反映されなければならない。そのために君の助言が必要だ」
「はい」
「それ以上でも、それ以下でもない」
短い言葉だった。宰相は振り返らないまま歩き出した。
それ以上でも、それ以下でもない。
宰相の言葉は、常に正確だった。私を守ったのではない。報告書の正当性を守ったのだ。私がたまたまその作成者であるだけで、宰相が守ったのは制度改革の手続きの正当性だった。
分かっている。
分かっているのに、胸の奥が複雑に揺れた。
守ってくれたことへの感謝。だが、自分で守りたかったという思い。宰相の裁定がなければ、あの場で自分の言葉で反論できたかもしれない。報告書作成者として、自分の力で。
だが、宰相の裁定は正しかった。政治的に正しかった。私が個人として反論するよりも、宰相府として公式見解を示す方が、効果が大きい。反論の主体が個人ではなく組織であることに意味がある。
頭では分かっている。
だが、心は別だった。
ここにいていいのだ。宰相がそう認めた。報告書作成者として、この席にいる資格がある。
能力で認められた。それは確かだ。
でも、本当にそうだろうか。宰相が守ってくれたから、この席にいられるのではないか。自分の力ではなく、宰相家の力で。
その疑問は、まだ答えが出ない。
答えが出ないまま、宰相府の廊下を歩いた。窓の外に、秋の午後の光が差していた。白い壁に影が落ちている。
報告書を書いたときは、自分の力で事実を並べた。王太子に提出したのも、自分の判断だった。
だが、施行細則の場では、一人の力では動かないものがある。組織の力。権威の力。宰相家の力。
それを借りることは、弱さなのか。
ギルベルトの母の声が浮かんだ。
「完璧である必要はない。誠実であればいい」
まだ答えは出ない。
だが、ここにいることは確かだった。宰相が認めた席に、報告書作成者として座っている。それは事実だ。
事実を守る。それが私のやり方だった。
次の会合がある。保守層の残党が、報告書を公然と批判する動きがあるとエレーヌが教えてくれた。
施行の壁は、まだ続いている。




